死んでもいいわ [短編小説]

 またやってしまった…。嫉妬が抑えられない。森口陽子がそんな後悔に苛まれている間に、後を追いかけてきた小野真知子が追いついた。
「もう、いったいどうしたっていうのよ?」
 真知子は息を荒げている。綺麗にセットされていた髪が少し乱れていた。てっきり彼女が二次会に向かったと思い込んでいた陽子は少し面喰った。
「別にどうもしてないけど…」
 他に何と答えればいいのか思い浮かばない。自己嫌悪のせいでと言うにも説明が難しいし、そもそも真知子にこそ理由をしられたくはなかった。
「嘘だよぉ。理由がなくてあの態度はないでしょう?」
 真知子は全く理解できないという表情で食い下がる。確かに、盛り上がっていた場から無言で立ち去れば、何かあったのだろうと思うはずだ。それに、呼び止められたのに振り向きもしなかった。もし自分が真知子の立場でもそう感じるだろうと陽子も思う。
「ねえ、セクハラでもされた? 誰? あたしがクレーム入れてあげる」
 真知子らしい反応だと陽子は思う。いつも一生懸命になって話している。だから、彼女の周囲には良い心根の人たちが集まるのかもしれない。陽子は心から羨ましいと思った。
「セクハラなんてされてないよ。ごめんなさい、私自身の問題」
 友人なら、ちゃんと理由を話さない訳にはいかないだろう。そう思う反面、やはり本当の事は言えないという気持ちが勝る。特に真知子には。陽子は胸が痛んだ。
 お互いに無言のまま、しばらく時間が流れた。重苦しい空気を変えたのは、やはり真知子だった。
「じゃあさ、二人で飲み直さない? 明日はお互い休みなんだし」
 真知子が屈託のない笑顔で誘う。陽子は身体中の肌がざわざわと蠢いた気がした。喜びが迷いを軽々と飛び越える。断る理由も見つからない。陽子は「いいよ」とその誘いを受けた。考えてみれば、二人だけで飲むのは初めてだった。
 お店は任せてと先に歩き出した真知子の斜め後ろを陽子がついていく。商社で働いている真知子とは、頻繁に会えるわけではない。知り合ってからは長いのに、本当に会っている時間は片手でも余る気がする。バイタリティのある真知子は、仕事でもプライベートでもいつも忙しくしていた。

 最初に二人が出会ったのは大学生時代のインカレサークルだ。真知子はいつも男子学生に囲まれていた。大学も違うし、学科も違う。真知子は有名私立大学の政治経済学部で、陽子は女子大の家政科だ。実際、サークル時代は言葉を交わしたのも皆無だったかもしれない。ただ、陽子が真知子を遠くから見つめていた。
 ところが、大学を卒業して二年ほどたったある日、たまに更新していたフェイスブックに真知子から友人のリクエストが来た。彼女の記憶の片隅にさえ残っていないと思い込んでいた陽子が、その日から真知子の友人になったのだ。
 陽子と違って、真知子は毎日のようにフェイスブックを更新している。ごく一言だけつぶやく日もあれば、長い文章をアップしている日もあった。それを何度も読み返すのが、今では陽子の日課になっている。以前は知りたくても知り得なかったことが、そこにはたくさん書かれていた。好きになればなるほど、相手の事を知りたくなる。そんな陽子の欲求を真知子のフェイスブックがしばらくの間は満たしてくれた。
 だが、知れば知る程に、もっとという気持ちが膨らんでいく。陽子には以前からそんな所があった。気になると相手を質問攻めにしてしまう。真知子に対しても、直接会って話したい事が山のように生じていた。何度もメッセージを送ろうかと思いながら結局断念したのは、真知子に嫌われたくなかったからだ。
 いつだったか彼女が書いていた日記に、根掘り葉掘り質問してくる男に対する嫌悪感が書かれていた。だから陽子は、直接会えた時にだけ少しづつ訊きたい事を消化してきた。そのために、真知子が参加しているイベントにも一緒に申し込んだし、彼女の邪魔にならない範囲で、出来るだけ近くにいられるようにした。
 今夜も真知子と一緒に申し込んだダイビングスクールの三周年記念の催しに参加した一番の理由はそれだ。まだ一緒にダイビングのレッスンを受けたことはない。いつか一緒に南の海に潜ろうとは話していたが、それが実現するのかどうかも定かではなかった。
 真知子はどこにいっても人に囲まれている。やはり遠くから見つめる事しか陽子には出来ない。今夜はそんな寂しさがピークに達してしまった。二次会に行こうという人たちの輪の中心に真知子がいる。嫉妬心が抑えられなかった。だから、誰にも挨拶しないで、あの場を去ったのだ。
 幼い子どものような態度だし、結局は真知子に負担をかけている。悔しいし、申し訳ないと陽子は思った。それでも、思わぬ二人きりの夜の訪れに胸躍る自分がいる。
 陽子は自分がレズビアンだとは思っていない。真知子以外の女性に魅かれたことは一度もなかった。ずっと男性と付き合っていないのは事実だが、保育園に来る園児の父親で素敵だと思う人はいる。だから男が嫌いという訳ではない。たまたま縁がなかっただけなのだと、陽子は思うことにしていた。

「月が綺麗だね」
 ふいに真知子がそう言った。歩きながら夜空を見上げている。つられて上を見ると、ビルの上に大きな満月が出ていた。朝、出がけに見ていたテレビで、今夜はスーパームーンだと言っていたのを思い出す。確かにいつもの月より大きな気がした。
「漱石だっけ? アイラブユーを月が綺麗ですねって訳した人」
 真知子がつぶやくように言った。確かにどこかでそんな話を聞いたことがある。
「そうだと思う。あれ? もしかしたら森鴎外かなぁ」
「鴎外って『舞姫』書いてるじゃない。違うと思うな。アイラブユーって言いそう」
 その後も何人か文豪の名前を言い合って、やっぱり夏目漱石だろうという結論になった。真知子は読書家だから、きっと名前の挙がった作家の小説は全て読んでいるのだろう。漱石の『坊っちゃん』しか読んでいない自分が陽子は恥ずかしくなった。
 それでも真知子と二人で歩く時間が楽しい。もっと何でもないことをおしゃべりしていたいと思えた。何度もこんな夢を見た気がする。それが今、実現しているのだ。
 ふと通りに目を向けると、コンビニやスーパーの恵方巻きの広告が目についた。バレンタインデーまでのつなぎ程度に受け止めていた恵方巻きが今ではすっかり暮らしの中に定着している。今、陽子が受け持っている保育園の子どもたちは、生まれた時から当たり前のように恵方巻きを食べてきた世代だ。言葉が自然にこぼれた。
「ねえ、真知子。恵方巻きって、いつ頃から食べるようになったんだっけ?」
「うーん。二十年ぐらい前じゃない?」
「そんなになる?」
「ハロウィンを祝いだしたのと同じ頃じゃないかな」
「えっ、ハロウィンの方がずっと先じゃない?」
「そうでもないよ。あたしが日本に帰ってきた時には、まだこっちのハロウィンは大した事なかったもの」
 真知子の言葉で、彼女がニューヨーク育ちなのを思い出した。子どもの頃から本物のハロウィンを経験してきたのだろう。
「まあ、ハロウィンの意味なんてほとんど誰も知らないんだろうけどね。アメリカの友だちには、日本人ってやっぱ変だって言われてるよ」
「日本のお盆みたいなもんなんだよね?」
 陽子は記憶をほじくり返して、恐る恐るそう言ってみる。そうそう、と真知子が相づちを打った。いつの間にか話題は恵方巻きからハロウィンに変わっている。
「祖先の霊が帰ってくるのと一緒に、悪霊や悪魔もやってくるから、子どもたちに仮装させて魂が悪魔に奪われないようにしたわけ。もともとはケルト民族のお祭りだよね。でも日本じゃ大人の方がバカ騒ぎしてる」
 そう言って真知子は笑った。渋谷の街中が仮装した男女で溢れていた光景を思い出した。陽子には少しだけその気持ちが分かる気がする。みんな、日頃から何者かに変身したいと思っているのではないか。
「陽子が興味あるなら、付き合うよ」
 突然、真知子がそう言った。付き合うという言葉に動揺して、混乱する。前の会話から考えて仮装のことだと分かるまで、微妙に時間がかかった。
「陽子は和服とか着たら似合いそうだよね」
 そう言われても、和服の仮装というイメージが陽子には浮かばない。
「『金色夜叉』とか、二人でやってみようか? おじさんたちにしか分からないかな」
 遠い昔に聞きかじった尾崎紅葉という作者の名前が陽子の脳裏に浮かんだ。真知子の中では、まだ文豪の話が続いているのだろう。陽子が覚えている『金色夜叉』は貫一がお宮を蹴飛ばしているシーンだけだ。真知子の知識には遠く及ばない。日本の文豪に詳しいというのは、今夜初めて知った真知子の一面だった。知れば知る程に魅かれてしまう。そんな真知子と一緒に飲めることが、陽子はこの上なく嬉しく思えた。

◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇

 真知子が案内してくれたのは、高速道路の高架下にある古びた店だった。焼き鳥が美味しいと評判の店らしい。お洒落なバーに行くのかと想像していた陽子は、真知子がその店の常連だと知ってギャップに驚かされた。
「教えるのは陽子が初めてだよ」
 そう言うと真知子は、どこかのイケメン俳優のようにふざけてウインクした。薄汚れた暖簾をくぐった途端、食欲をそそる肉の焼けた匂いに包まれる。「らっっしゃい」と威勢の良い男の声が響いた。
「おっ、お嬢ちゃん、今夜は恋人連れかい?」
 焼き鳥の櫛を手早くひっくり返しながら、早速店の主人が真知子に声をかけてくる。女同士なのに恋人連れとは、いかにも昭和世代の冗談だと思った。
「そうなのよ。あたしのパートナーになる子だから、変な色目使わないでね」
 すかさず真知子が切り返す。店の主人だけでなく、カウンターで飲んでいた数人の男たちが一斉に声をあげた。皆が顔見知りなのだとその時に分かった。
「お嬢ちゃんのパートナーさんは、名前何て言うの?」
 髭をたくわえた老年の客が、ことさらパートナーを外国人風に発音しながら陽子に訊ねてくる。真知子は皆からお嬢ちゃんと呼ばれているらしい。
「あの…陽子って言います」
「陽子ちゃんかぁ。ピンキーとキラーズだねぇ」
「ピンキー?」
「えー知らないのぉ。ピンキーとキラーズっていやぁ『恋の季節』。歌ってるのが、今陽子さぁ」
 常連客たちは『恋の季節』を歌って勝手に盛り上がりはじめた。真知子は呆れ顔でその様子を見ている。
「ゴメンね、まあ気はいい人たちだから」
 そう言いながら真知子は陽子の手を引っ張ると、空いていた一番奥の席に連れて行った。
「ここがあたしの定位置なんだ。仕事帰りにご飯食べに寄ってるの」
 真知子がそう言うと、つきだしを持ってきた店の主人が「時々、厨房で勝手に料理もしてるんだぜ」と付け足した。真知子の両親がアメリカに戻ったため、今は一人暮らしなのは知っていた。だが、まさか昭和の匂いがする店をキッチン代わりにしているとは思わなかった。
「なぜか落ち着くんだよね。帰国子女だってだけで、いっぱい誤解されてるから」
 そう言って真知子が笑う。陽子は目頭が熱くなった。自分も彼女を誤解していた一人だと思った途端、涙がこぼれる。
「ちょっと、どうしたのよ。ゴメン、何か辛気臭かった?」
「違うの。私の方こそゴメンなさい」
 店の主人も常連たちも、気づかないふりをしてくれているのが分かる。いろいろな思いが陽子の胸の中で千々に乱れていた。
 そのうち、見るからに美味しそうな焼き鳥が目の前に並んだ。真知子がお薦めだと言って、名も知らぬ地酒をコップに注ぐ。
「今夜はとことん食べて飲むよ」
 そう言って一気にコップをあおった。相変わらず男前だねぇとさっきの髭を蓄えた老人が声をあげる。
「お嬢ちゃんって呼び名は、美空ひばりからきてるんだぜ」
 主人が空いたコップに酒を注ぎながらそう言った。いつだか、真知子が美空ひばりの歌を歌ったのだという。彼女からすれば、祖父母が美空ひばりのファンだったから良く知っているのだそうだ。今夜は真知子の意外な一面を知り過ぎて、正直飽和状態になっている。だが陽子にとって、遠い存在だった真知子が、一気に身近にもなった。

 二時間ほど食べて飲んで、他愛もない話を山ほどした頃、ふっと二人だけの時間が出来た。常連たちは各々家路につき、店の主人は足りなくなった食材を買ってくるからと、二人に店番を頼んだのだ。
 賑やかだった店の中に静寂が漂う。主人が念のためにと店内の灯りを暗くしたうえに準備中の看板を出していったようで、暖簾をくぐってくる客もいなかった。陽子が真知子の横顔を見る。今夜、なぜ何も言わずに帰ろうとしたのか、理由を話すならこの瞬間だった。
「陽子はさ、あたしのことをどう思ってるの?」
 口を開こうとした矢先に、真知子から質問された。だいぶ酒が入っているはずだが、酔った雰囲気はまるでしない。口調はきつくないけれど、胡麻化せない凛とした意志が感じられる声だった。陽子は一度大きく息を吸ってから口を開いた。
「今夜、黙って帰ろうとしたのは、真知子と親し気に話す男の人たちに嫉妬したからです。どうしても堪えられなかった」
 息はそこまでで途切れた。もう一度大きく息を吸う。唇が震えた。
「ずっと嫌われるのが嫌で黙っていたけれど…」
 もしかしたら、これが真知子と過ごす最後のひと時になるかもしれない。そんな思いが胸を絞めつける。それでも言わない訳にはいかないと思った。
「真知子のことが、ずっと好きでした。友人としてだけでなく」
 真知子は微動だにせず、ずっとカウンターの上のコップを見つめている。横顔だけではどう思っているのか分からない。悪く考えれば、どうしようもない嫌悪感と闘っているようにも見えた。陽子の胸に絶望感が溢れてくる。それでも、最後までは伝え切りたいと思った。
「女同士でと思うかもしれない。でも好きなんです。そしてこれからも、ずっとあなたの事が好きです」

 店の前で酔っ払いの怒鳴り声がする。静寂が続くよりは救われた気がしたけれど、せっかくのムードを壊された気もした。ふいに真知子が空を見上げるように斜め上を見つめる。大きく息を吸っているのが分かった。何かを言おうとしている。それは、先ほど陽子がしたのに近い心境からくる動作だろう。言いにくいことを話す時の呼吸としか陽子には思えなかった。きっと、もう友人ではいられないという別れの言葉を。
「月が綺麗だね」
 真知子の声が優しく耳に響いた。斜め上を見つめたまま、真知子がその方向に指をさす。その指先で示された方向に目を向けると、開いた店の天窓から満月が見えた。
「ほんとに綺麗…」
 月光が強張った心と身体をほぐしてくれるように感じる。ちゃんと思いを伝えて、この月を二人で見ることが出来ただけでも幸せな事なのだと陽子は思えた。だが、そんな陽子の耳に、再び真知子の声が聞こえる。
「あたしにとっても、月はずっと綺麗だったよ」
 そう言うと、真知子はカウンターの上に置かれていた陽子の手を握った。頭の中が真っ白になった。道すがら話した漱石の逸話が蘇ってくる。最初の言葉が愛しているという意味なら、二つ目は何を意味するのだろう。勘違いでなければ、真知子もずっと陽子を好きだったという意味になる。
「さっき、皆にパートナーだって紹介したよね」
 真知子の目が陽子に向けられた。陽子の頬が紅潮する。酒に酔ったからではないと自覚できた。酔っているとすれば酒ではなく真知子になのだろう。端正な真知子の顔が近づいてくる。唇と唇が触れた。お互いに飲んでいるからか日本酒の匂いはしない。なぜか真知子のキスは、ミントの香がした。
「ピンキーとキラーズなんて、知ってた?」
 長いキスの後、真知子が訊いた。陽子が知らないと首を振る。
「忘れられないの、あの人が好きよ。そういう歌詞なんだよ」
 さも可笑しそうに真知子が笑う。ほんの5センチほどの近さで囁く真知子の吐息が陽子の前髪を震わせた。
「ずっと忘れられなかったの。だからフェイスブックで見つけた時、すぐにリクエストを送ったんだ」
 真知子の話は、陽子にはにわかに信じられないことばかりだった。サークルの合宿の時から、ずっと声をかけられないまま卒業してしまった後悔。男性とつき合うたびに感じてきた違和感。真知子には彼女なりの悩んだ年月があった。
 陽子はそんな真知子を心から抱きしめたいと思い、今度は躊躇することなく思いのままにそうした。細くくびれた腰に腕をまわすと、互いの胸がまるでパズルのピースのように重なる。今、店の主人が帰ってきたらどう思うだろう。そんな思いもあって、心臓が早鐘のように鼓動していた。
「今夜、うちに来て。マンションの10階だから、月がよく見えるよ」
 真知子がそうつぶやいた。表で店の主人の声がする。相手は先ほどの酔っ払いだろうか、殺してみろと怒鳴っていた。お互いに強く抱きしめていた腕をほどく。でも今夜はまだ別れなくていいのだ。
 陽子はもう一度真知子の唇にキスをする。その時、ふと思い出した。月が綺麗ですねと言われたら、何と返事をするのが良いかを紹介する雑誌の記事を、陽子は以前に読んだことがあったのだ。そこには確か、二葉亭四迷がロシアの文豪ツルゲーネフの小説を訳した際に使われたフレーズが良いと書かれていた。
「ねえ、ツルゲーネフの小説は読んだことある?」
 帰り支度を始めた真知子に訊いてみた。ロシア文学はあまり読んでいないと言う。二葉亭四迷がツルゲーネフの小説を翻訳していると話したら、真知子は面白そうだと目を輝かせた。
「月が綺麗ですねって言われたら、その小説の中で使われたフレーズで答えると良いそうよ」
「そうなんだ。じゃあ、ちょっとやってみようよ」
 真知子は陽子の肩に腕を回した。今だから感じるのかもしれないが、真知子の仕草には格好いい男に感じる色気がある。陽子の頬がまた赤らんだ。二人で一緒に、天窓から満月を見上げる。
「月が綺麗だね」
 ふざけた様子もなく、真知子は真剣な声でそう言った。表では、まだ酔っ払いが叫んでいる。だがさっきまでの威勢は微塵もなく、死にたいんだと泣き声をあげていた。
 もし今夜、真知子が追いかけてきてくれなかったら、自分もあんな気持ちだったかもしれない。そう陽子は思った。真知子と思いが通じ合った今、死にたいとは決して思わない。でも、愛されていたという充実感は、対極にある死さえも厭わないと思える気持ちになっていた。だから、柄にもなくツルゲーネフや二葉亭四迷のことを思い出したのだろう。陽子はそう考えながら、真知子の横顔を見つめた。視線を感じた真知子が陽子を見つめ返す。その時、その言葉が本心として零れだした。
「死んでもいいわ」
 急にまた周囲に静寂が戻ってきた。照明を暗くした店内で、天窓から差し込む月明かりが二人を照らしている。
「私もそう思うよ」
 これまで我慢してきた時間を取り戻したいと真知子は言った。秋の夜は津々とふけていく。週末の予定はない。そう答えると真知子は「私も」と言って微笑んだ。そんな真知子の瞳の奥に、強い欲望の光が灯るのを陽子は見逃さなかった。もう一度、陽子の胸に死んでもいいという思いがこみ上げていた。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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