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三島と川端のために足を伸ばした、あの日とつながる由比ヶ浜|鎌倉市

鎌倉文学館に、どうしても行きたかったのだ。

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太宰治が書くところの“女生徒”だった当時の私は、純文学に夢中だった。森鴎外、夏目漱石、中原中也——中でも一等好きだったのが三島由紀夫。国語の授業で作家を調べる自由研究のような課題があって、三島がお題となった回は時間を忘れるほど図書館で文献漁りに明け暮れた。川端康成と深い交流があったことを知ったのは、おそらくその時だろう。

何処で情報を得たのか、鎌倉文学館で三島と川端を取り上げる展示がある、と分かった私の足は最早止められなかった。当時の住まいから鎌倉市は、決して近いとは言えない。それでも、誰も誘わずにひとりで江ノ電に乗ったのが今振り返っても私らしい。

あれから10年以上。
鎌倉で取材する機会が訪れて、この日を思い出さずには居られなかった。

鎌倉市鏑木清方記念美術館にて

午前のうちに取材の仕事を終えて、私は解放された。前日まで別の仕事に追われていた所為で、小旅行は全くのノープランだ。プランが無い、不安に駆られる。心配性だから本当はいつも綿密に旅程を組んでいくのに、行きの電車で地図を少し見たくらいだ。けれども、“自由”は意外にも私の無駄な思考や懸念を吹き飛ばして、鎌倉を五感で味わうことだけに集中させてくれた。

それにしても何て久しぶりだろう。記憶の限り、おそらくあの日を最後に訪れていない。東京に移り住んで早数年、「山安」の看板を見るだけでホームの土地に帰ってきた懐かしさが込み上げた。

鎌倉観光の定番、鶴岡八幡宮でお参りをしてから周囲を歩いてみる。

鎌倉国宝館

境内が賑わっていても、ここは静かだ。誰も見ていないような場所で紅梅が控えめに咲いている。ひとり、カメラを向ける男性の姿。写真映えは正直言ってしないだろう。けれども、それが良い。

鳩サブレーの豊島屋 本店

暫く散歩してから引き返して、小町通りを進む。店先で腸詰屋のヴルストを焼くいい匂いがして、「湘南ビール」の看板に心が揺れた。ビールと一緒に頬張ったら、尚のこと美味しいだろう。

ふと、豚まんじゅう屋を見つけて吸い寄せられる。湘南しらすの入ったものが一等美味しそうで、1個買う。肉まんを買わなければいけない切実な理由があったからだ。

豚まんじゅう専門店 鎌倉点心
鎌倉まめや

何処からかお香の香りがする。古都・鎌倉の香り、古き良き情趣の香り。通りには小粋なプリンやわらび餅を売る店が並ぶ中、原宿の竹下通りにあるような苺アメやチョコバナナまである。まるで祭りだ。クレープ屋の軒先には「とんびに注意」と手書きの愛らしい看板が掛けられ、本当にそんなことあるのかなと首を傾げた。

鎌倉駅まで戻ってすっかり満足していた私の脳裏を、不意にあの日の記憶が掠める。ブレザーを着て登校していた私の小さな冒険の1頁を、今の私が捲ることに意味があるような、そんな気がして——

ここから由比ヶ浜まで20分位。歩いて行けない距離じゃない。

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お腹が空いた。不幸にも現金を持ち忘れた災難もあり、ふらふらしている間に昼食の食べどきを失った。肉まんは浜辺で食べたいから、我慢。「まめや」の湘南ゴールド味を口に放り込み、黙々と歩きながら考えていた。

鎌倉の記憶で、どうしても思い出せないことがある。

あの日、私は由比ヶ浜を歩きながら肉まんを食べていたのだ。何故そんなことをしていたのか、そこだけぽっかり抜け落ちたように思い出せない。それが館に行く前か、行った後かさえも。おそらく昼食を取りたかったが、周囲に女子高生がひとりで入れそうな店が無かったのだろう。それに、当時のお小遣いの額もたかが知れている。なけなしの小銭で肉まんを買ったに違いない。

そもそも、あの日に見たはずの展示もそれほど覚えてはいないのだ。それなのに、潮風に吹かれながら食べ歩きをして海景を眺めた記憶だけが鮮明に残っている。

変なの、と振り返りながら妙な納得感があった。今の私も豆菓子を食べながらひとりでよく知らない土地を歩いている。昔も今も、やっていることはそんなに変わっちゃいない。

前方の景色が開けてくる。海が近い。

由比ヶ浜

睦月の午後3時。太陽はやや傾いて、水面に無数の光の粒を落としていた。何も無い白浜と故郷の青い海を見て、涙が溢れそうになる。あの日の不思議な記憶を辿って、今の私が再び訪れた。

——あの日のように、砂浜を歩きながら。
——お腹、空いたな。

鎌倉点心のしらすまん

ビニール袋から肉まんを取り出す。ああ、これを噛み締めたら、本当にあの日の私と繋がれる気がする。

その瞬間。ドス、と突撃するような音がして、私の前を何かが通り過ぎていった。あまりにも一瞬のことで、1秒にも満たない間を経てから何も持っていない自分の手を見て、小さな絶望感が湧き上がった。とんびだ。私のノスタルジーは翼の生えたギャングに全て持って行かれてしまった。

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結局、私は空腹を満たせないまま豆菓子を全て食べきり、江ノ電の最寄駅へと向かった。散々だが、こんなトラブルも実際のところ私らしい。すっかり放心して、逆方面の電車に乗るところまで見事だった。

鎌倉文学館は、惜しくも修繕のため休館中だ。令和8年、待っていればあっという間に訪れるだろう。その時はまた鎌倉へ足を運んで、色褪せてしまった館の記憶も補いたい。その日こそは、肉まんを丸々1個頬張ってやろう。どうやら、私は根に持ったようだ。

また、鎌倉へ行く理由ができてしまった。

江ノ島電鉄 由比ヶ浜駅


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