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シティポップ大全 #12

☆元祖シティポップ はっぴぃえんど

 小稿#8 はっぴぃえんどの回でははっぴぃえんどの初期活動のことをできるだけ史実に則って書いた。
 その後、はっぴぃえんどからキャラメルママを経てティンパンアレー、ナイアガラまでを網羅するFBグループが存在することが分かり、過去記事まで遡って掲載したところ各記事ごとに毎回多数のいいね👍をいただき好評を得ている。
 時には100超えの時もある。
 又、ナイアガラ専門の「大滝詠一の音楽を愛する会」なるグループもあることを発見して小生のナイアガラ関連の記事は過去記事から遡って併掲することにしている。
 どちらも紳士的な方ばかりでFBあるあるの意地とプライドのぶつかり合いみたいなイザコザから分派したりする様な事は今のところない。
 小生も今ではフェイスブック、ブログそして最近ではnoteとSNSの幅を広げて書いているが、今のところ最後のnoteが最も小生の様な多記事派には向いていることが判明している。
 そんな中でもFBは今月末には現在のアカウントになって丸2年が過ぎようとしている。
 小生が立ち上げ記事を書く際はFBタイムラインから始めてきた慣習からそうしているし、いくらnoteが整理しやすいからとは言え小生の場合は友達との交流が最も濃密だから反応も分かりやすい関係から、最初は必ずFBから書くのが一番書きやすい。
 そんな訳ではっぴぃえんどが初めて"はっぴぃえんど"と名乗った1970年4月12日のロック反乱祭迄前回は話を書いたので本稿はその続きから。

 その反乱祭の興奮冷めやらない足でメンバーは御苑スタジオで練習してから日付けの変わる13日0:00から07:00迄アオイスタジオで"ゆでめん"の残りの曲を録音する。
 この間の模様はマッドルームという事務所を開くグループが8ミリフィルムに収めていた。
 はっぴぃえんどのメンバーはアオイスタジオでの録音後この撮影隊と共に新宿、瀬田、横浜まで足を延ばしてロケを敢行した。
 19日に六本木「スピード」で早くもこのフィルムの完成記念ライブが行われた。
 フィルムのタイトルは「ラブ・フェスティバル・ラブ」であり、現在ではその一部がYouTubeで閲覧可能である。
 その前日の18日に21日の岡林信康のアルバム「見るまえに跳べ」の2回目のレコーディングに向けたリハが御苑スタジオで行われ、この時たまたま見学にきていたのが、鈴木慶一とあがた森魚である。
 岡林が到着する前であったことから音合わせのために担当ディレクターだった早川義夫がはっぴぃえんどをバックに歌っている光景を観て、その組み合わせの凄さに感動したと言う。
 5月15、16日と渋谷西武のRFで開かれた「メイ・フェスティバル」というイベントにはっぴぃえんどは1時と3時の2ステージ予定していたが、2日目は雨天だったことから急遽細野と大滝のデュオ「モーニングデュー」として出演した。
7月28日大滝栄一22歳の誕生日にしてこの日を境に本名栄一から詠一にアーティスト名を変えた。
 そして問題の8月3日に雑誌「新宿プレイマップ」70年10月号でのニューロック座談会が行われた。
 これが世に言う"日本語ロック論争"の起点になったものである。
 メンバーは司会に相倉久人、内田裕也、鈴木ヒロミツ、中山久民の面々。
 小生はこの座談会のプレイマップのコピーを全文読んだが、ハッキリ言ってバランスが悪いし、日本語派ははっぴぃえんどの大滝だけ、あとの3人はなべて英語派…と言った空気感だった。
 司会の相倉もジャズ評論家の分際で多勢派に与している雰囲気だった。
 大滝も若気の至りとしか言い様のない孤軍奮闘ぶりだ。
 これに先立つこと7月8日にはっぴぃえんどと松本隆のブレーンだった石原信三を交えてミーティングを開き、はっぴぃえんどの先々は日本語によるオリジナルロックしかやらない!と言う大いなる信念の標榜をしたばかりであった。
 そもそも日本語ロックのコンセプトを打ち出したのは松本であり理論武装をしたのがこの石原であった。
 細野はそれに共鳴した形でバンドが組まれ大滝は本来ならこの座談会に出席すべきではなく、出るなら松本か細野であるべきである。
 そもそもロックは英語でなければビートに乗らないと裕也、ヒロミツらは激しく大滝を糾弾、裕也は分かるがヒロミツなどはモップス時代に散々日本語ロックを歌ってきたくせに、掌返しもいいところ。
 今読むと隔世の観極まるディスカッションでまるでお話にならない。
 そんな中、大滝はただ弱々しく…そんなこと、やってみなけりゃ分からないじゃないですか…と応戦すると言った多勢に無勢の弱いもの虐め的な空気感濃厚であった。
 この日は大滝ともう一人、松本か細野か石浦が共に挑まなければいけなかったのでは?と思ってしまう。
 そして、2日後の8月5日遂にファーストアルバム「はっぴぃえんど」がリリースされた。
 8月8日〜9日に岐阜県恵那郡坂下町椛の湖湖畔で「第二回全日本フォークジャンボリー」(通称中津川フォークジャンボリー)が開催されはっぴぃえんどは♫見るまえに跳べ を提げて登場した岡林信康と噂のニューロックバンドはっぴぃえんどとして出演、岡林のバッキングの他、単独でもステージに立つ。
 ♫12月の雨の日 ♫いらいら ♫朝 ♫しんしんしん ♫かくれんぼ そして遠藤賢一のバッキングを務めた彼のレパートリーから♫雨あがりのビル街 など計8曲が演奏された。
 吉田拓郎の♫人間なんて のステージを観ていた観客の一部が暴徒化して混乱したあの有名な中津川フォークジャンボリーはこの翌年の第3回のもので、その混乱の責任を取る形で主催者側はこのフェスを3回で打ち切ってしまった。

 フェス真っ盛りの現在の音楽状況や若者達の価値観も隔世の観があるが、当時の若者達を取り巻く状況の一つに学生運動と言うものが未だ燻っていた時代の話だ。
 大学に行っても集会などで屡々、授業は中止になり或る意味思想のない学生は自己批判させられたりする大変な時代だった。
 日本でも若者が政治に介入しようとして未遂に終わった時代は戦前にも共産主義がまだ然程浸透していなかった時代にはあったが治安維持法によりすぐに共産主義は非合法思想と言うことで日本の敗戦後まで幹部たちは牢獄に囚われていた。
 そう言う意味では1960年代が最も熱かったと言える。
 その断片は大島渚の「日本の夜と霧」などに詳しく描かれている。
 そう言った時代背景と音楽は密接であり、岡林信康はそうした若者からはカリスマ性さえ感じられた。
 細野晴臣が後にラジオで…はっぴぃえんどとして岡林と全国ツアーを回れたと言う事は売名上非常に重要だった…と回想していたのは何より印象的だった。

       https://youtu.be/y-NtLVL2N5c

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