140ちゃん
このシリーズ、私はスキですよ。本当です。
森博嗣さんのやつです。
本書は今日に至るまで生きてきた私を優しく抱擁した。 しかしそれは、 あの温もりに浸り潤ける私を騙すかのように、 現在の通念と訣別を強いる舞台へと場所を移していた。 そこで私は憤りながら、感涙せざるを得なかった。 「苦心して生きてる私の意義は何?」 その明確な答えを、この手に収めたからである。
蝿たちは 知らぬ器官を 持つている
意図的にぼんやりしたことを書いていて、ただただおふざけに付き合うことができるいい時間を過ごせた。それは文章的にも日常的にも難しい。 太陽でカラッとした肌馴染みのいい天気の日は、くだらない文章を読みたい気分になる。どことなく旅行に近いわりに、あれこれの手続きもない。 ひどく都合が良い。
免疫細胞になった。 内容の良し悪しに関わらず、いかにも人工的なものに対して反応し、追いやろうとした。 干からびかけた硬い水路には、あってもなくてもいいような標識があるが、とにかくそれを目印に進む。他の道を探り当てる気には当分なれなかった。 時には、水気を含んだ服でまた水路を歩き続けた。
久しぶりに読んで思う。 「これ私が考えたことじゃなかったのか…」 それだけ身に馴染んでいると言えるし、それだけ影響を受けやすいのだとも言える。 また、改めて思うことがある。 「やってみると違うことが見えてくる…」 至極当然のように感じるが、いかんせん言葉で物事を片付けているのも事実である。
商業的に描くのか、個人的/趣味として描くのかで、だいぶ異なると感じる。 とは言えど、個人的に描くとは何だ? 現実を凌駕する何かに突き動かされた時だろうか? そうだとしても、創作するだろうか? 考えても方法論にならない。 少し溜息をつきたくなるが、感情と願望に依存するのだろう。では理性とは?
何かと引っかかりを残してくれた。 おそらくは日常生活で気づくことになるだろうし、何らかの形に残っていくような引っかかり。 何かを求めているのだろうか。 ただただ文章を読み漁りたい気持ちの方が強い。 この観察が誤っていたとしても、全く構わない。 言葉に表していくと、分からなくなる部分がある。
また同じ感覚だ。 知らないところで何か楽しそうなことをしているのを感じる。「自分にもできるだろうか?」 そしておそらくできることを学んだ。 それで大きく変化させることはできないだろう。 というか、変化させるべきではない。 だからやることにした。 全く辻褄が合わなくてもやらなくては。くたばる。
目を瞑りたくなるときに、どうしようもなく読みたくなる。寂しさで寄り合うように。 心情や掛け合いが日常的だから、自分の理屈に当てはめたくもなる。けれどもあえて傍観者になる必要があるのかもしれない。 無目的の最中であっても蝶を見つけたら追ってみるのだろうか。もしそれが悲劇を呼ぶとしても。
憧れ、思惑、疑念、愛慕、称賛。そんなものを取っ払い、残るのは、良い事実。 「そんなことが可能なのか」という驚きと含み笑い。まさしく、人間によって鼓舞される時。 意識するしないに関わらず、忘れてしまうのだ。 「私たちはどこまでいけるのか」ということを。 近づいてみたいものだ。計画を立てて。
本当に良いものは言葉に表せないのではないか。 いや、継ぎ接ぎで表すことは辛うじて可能であるかもしれない。だが単語として存在するのか…。 というのは、その体験があまりに行き渡っていないからだ。こっそりと作るわけにもいかない。 という風に展開していけることを教えてもらった。 本当に良いもの。
やや誇張気味の表現が小説の中では馴染むのだろうか。どの人物に対しても何かしらの愛着が生まれた。 その愛は一種の優越感から生まれたのかもしれない。常識から外れた場所・もので遊ぶが、そこには常識的な心理が這っている。そして愚かしく振る舞っているように見える。眺めているだけで愉快なのだ。
欧米の小説を読むのも、文章を声に出して読むのも初めてだった。時間をかけて、ゆっくりゆっくりと物語を動かしたいのなら適しているし、飛ばしてなんか読めやしない。 相対的に時間の流れを調整できるのがいい。 何本もの可能性を同時に流していくのがいい。 詩の中から水を引いてきているのもまたいい。
私は普段から考えていないのではないのだろうか。思いつくことがあってもそこから展開し続けることはない。 ただ思い出せないだけかもしれないが、このように文章を書いている時の方が、考えている気がする。 そもそも、考えたいと思っていない。 考えさせられることの方が多い。「暇と退屈」は、まさに。
誰もが個人的真理の追究を、哲学を構築し始めるとしたら…。そこに理解や批判、それ以上のことは必要だろうか? 戯言なんだろうか。小難しいことは置いておき、自分を最優先し、その余力で協力していく。 創造には仮定を、現実には疑いを。 そのズレの中で行動を続けるのは難しくも、価値があるのだろう。