なぜマインドは、「私」という主体/「世界」という客体という二元性に分離させるのか?

内側の世界と外側の世界は変わりません。この二つは同じです。
しかしこれらが異なるという信念によって、ある状況と葛藤を設定します。

例えば、周りがうるさくて集中できない、恋人が口うるさくてしんどい、といった状況があるとします。これは「もっと違う状況ならば、自分は安らかなのに」と言う信念を表しており、それにより自分にとって望ましくない状況を自分の「外」のように認識しています。「安らかな内部経験を持つには、安らかな外的環境にいる必要がある」という考えは、イコールで「自分の心の状態は、自分の周りで起こっている騒音/活動/他者といった外的条件に依存している」ことを仄めかしています。さらに進めると「自分は特定の環境にいる」という信念も見えてくるでしょう。

「自分が環境にいる」という信念は、私は世界にいて、世界とは異なる人間である、という信念にまでさかのぼります。私は世界で行動し、世界において行動できる人間である、という信念があります。これは主体/客体の分裂です。

私たちは個人的な「私」を持っています。それは世界の主題であり、主観的に世界を知覚します。私には感情があります。好き嫌いがあります。人として決定を下す能力を持っていますし、他者は人として決定を下す能力を持っていると信じています。これも主体/客体の分裂です。
すべてが──すべてすべて!──自分の外で(構築物としての自己概念・「私」として認識するものの外で)見られます。この分離は心の中にあり、それは選択です。「主体と客体」とほ、心が選んだことを知覚する方法なのです。

ではなぜ心は分離させるのでしょうか? 主体と客体と分離させることに、どんな目的があるのか?

心の中にある相反する二つの思考体系の「プレッシャー」を和らげるために二元性という方策が存在する。心の中のプレッシャーを緩和し、より管理しやすく、より直面しないものにするために、ある1つの思考体系をその思考体系の外に投げ込もうとします。それが二元性の設定方法です。それは、耐え難いと感じるのは、心の中ではなく、「心の外」であるように経験されます。
プレッシャーを外に置くと、心の葛藤が緩和されるという一種の疑似信念や誤解がありますが、本当に耐えられないのは「心の中の葛藤」なのです。

このような恐怖への執拗な回避によって、世の中に問題があるとすぐに非難したり/定義したりする投影ゲームが始まります。
瞬間、瞬間で、この「耐えられなさ」の力強さを感じられるだろうか。世界の問題を批判し非難し定義しようと瞬間に、それにをしたくなるのを感じながら、「耐えられなさ」の力を感じることができるだろうか。そんな心の葛藤を外へ投影しようとする背後には、尋常じゃないほどの「恐怖」があるのです。

その恐怖によって、常に「自分の環境で何かが違っていれば平和になるかもしれない」という望みを抱くことになるが、これは「1つの問題と1つの解決策しかない」ことを知るに対する防御です。この防御は、世界で無限のバリエーションを伴って起こっています。

「もし…家族が違う人だったなら」
「もし…貧乏じゃなかったなら」
「もし…容姿に恵まれていたなら」

何が起こっているのかを本当に理解できるようになるまで、この防衛は繰り返されます。現状と違ってほしいと思うような状況が生じたときはいつでも、自分が知覚の問題を抱えていることを思い出しましょう。

分裂を融合させる——自分自身と世界の間に二元性を見ないこと——は大きな飛躍のように思えるかもしれません。経験的な根拠や基礎がないかのように思え、理解できず、不可能に思えるかもしれません。心の中の二元性を手放す最初のステップは、その理由のダイナミクスを見ることです。

なぜ心は、二元性を生じさせるのですか?







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