多くの、人生の目的が「肉体の快適さ」と「自己概念の強化」を求めることになっている。


生きる目的はなにか?と問われたら、
1.肉体を維持し、その快適さを追求すること
2.「自分とは◯◯である」という定義による”私”を実現すること(そのために強くなる)

と答えることになるだろう。
肉体は常に欠乏を生成するので、それを満たすために取り留めなく補充しようとする動機が発生する。(喉が渇いた、お腹が空いた、寒い、疲れた…などなど)

そして欠乏が満たされた時の「快感」をもっと味わうために、通常の状態をも”欠けている”と見なし、それを補うためにもっと良い物で補充する──快適さの追求と呼べるもの──が行われる。最低限、肉体の維持はされていてもそれを問題にすることで果てしない肉体の追求が目指される。(最後はどうなるのだろう?)

同様に”私”を実現するために、貴重な物を手に入れたり、魅力を高めたり、力を求め、性格を磨いたりするようになる。周りから重要なのは人物だと思われるために無理してでも褒めたり助けたりもするようになる。
「漫画家である私」と自己定義したならば、様々な漫画のスキルを習得し、偉大な作品を残し、周りから重要な人物だと認めてもらうためにコネクションを作ったりする──すべては「漫画家である私」を強化しそれを実現するために。

(余談だが、この自己概念の「所有、誘惑、力」の追求は、やがて「人と対等につながる・世界を理解する」ことへと向けられ、最後には「自分とは本当はChristであった」と知ることになる)

「お金」は、この二つの目的を手早く達成するためのものとして価値が置かれることになる。お金があれば!なんでもできる!という主張は単に「肉体の快適さを追求し、自分が定義した自分をもっと大きくするために、お金は役立つ!」というだけである。

そしてこの二つの目的を叶えるために、「努力(嫌なことでも頑張る)」し、他者と「戦う(負けたら欲しいものが手に入らない)」ことは当然で正しいものだと考えるようになる。

これらに共通してるのは、「つねに欠乏があり、欠乏状態では苦しいので、満たす必要がある」ということだ。
そして「肉体」も「”私”」も、自らが常に欠乏するようにあらかじめ忘れることで、このゲームを続けることに成功しているのである。



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