simul fieri

※前ブログより再掲載※

本日は、十月二日。曇り、現在十三時三十五分。

すっかり、耳を劈くほどの聲を挙げていた蝉たちは居なくなり夜には半袖で歩けないほどのちょうどいい気温になってまいりました。

巷では、金木犀の香りが秋の訪れを感じさせていると、言われておりますが私自身まだ感じ取れておれずあまり秋の訪れといいますかセンチメンタルな気持ちになるような季節を迎えていない気分です。

さて、何故ここまでサイトも動かせず何も動かなかった、いや動けなかったのか書いていきます。

まず、前回の日記と言いますか記事は八月二十一日で終わっています。

まだ妊娠八週目あたりかと思われます。悪阻で職場に来ても二時間、三時間で帰宅してしまうような状況が続いておりました。

日に日にひどくなる悪阻、劣悪な住居環境、妊婦と起訴されている犯罪者。精神衛生上酷すぎる環境が二人を襲い、とうとう破滅してしまいました。

事の発端は、共に気分転換にビリヤードをしに行った時の事。

私とパートナーがゲームをしている途中、私と縁を切った男性の同級生とその友達がもう一台の方に訪れました。

顔を合わせた瞬間に、久しぶりということもあり手を振り軽い挨拶を二人にかわしました。

ゲーム途中だったので、ゲーム終わり次第パートナーにどの関係でという様な事を説明しようと思って居ました。

しかし、ゲームが終わった瞬間にパートナーは機嫌をあからさまに損ねたような状態に陥っており、話などまともに出来る状態ではありませんでした。

喫煙をしに、ブースに向かったものの言葉を交わす事も無く、嫌悪感でいっぱいと言わんばかりの態度と行動だったので店を後にしました。

『なにか嫌な気持ちにさせる様な事はしたか?』と問いただしても、口を開くことは無く、帰路に着きました。

家に着いてから、突然パートナーの口から『アイツと連絡を取って居るだろう』と言われました。

家に着く前から、同級生はあからさま怒ってしまっているパートナーをみて気を遣って連絡してくれていた。

それに、個人的なプライベートの会話、というよりもパートナーの為に連絡をくれていたのだ。

一連のことを説明すると、『浮気した、(元パートナーの名前)と同じだ。お前ももう信じられない。』と言われ私は頭の中がハテナでいっぱいになった。

なんど、説明しても無意味な状況。次第に口論はヒートアップしていく。

とうとう、パートナーはキャパシティを超えてしまい私の体を目掛けて携帯を力いっぱいに投げつける。

その行動と共に、この家から出て行けと吐き捨て私の堪忍袋の尾が切れた。

その携帯は、私の左足の甲に直撃。すぐに動こうと思ったが痛みで足が硬直する。ただこれ以上感情論を繰り広げても危険だと思い無理に動き必要最低限の荷物を鞄に詰め、家を出た。

もう、破局する運命。やはり、母が行った占いで言われていた結果だった。もう終わりだからと思い実家に帰った。

心も折れてしまい、とりあえず誰かに聞いて欲しい、言葉を交わす話すだけの人が欲しいと思い左足を引きずり親友に電話を掛けた。

一連のことを説明すると、心配してくれわざわざ遅い中遠い道を迎えに来てくれた。

実家に着いて、母に妊娠を含めた事すべてを説明した。

破局するか、このまま続けるか。とにかくこれくらいしか考えられなかった。

そんな状況で、考えを濁らせていると張本人のパートナーから電話がかかってきた。恐怖心が正直あった。

パートナーの言い分は、縁を切った人間になぜ挨拶を交わしたのか?連絡一通来た時になぜ報告しなかったのか?という疑問で沢山だったらしい。

私とパートナーの価値観の違いと、食い違いが一気に起こってしまってお互いパニックになっていた。

ある程度話していくと、だんだん嫉妬心むき出しの言葉が浴びせられていた。

とうとうその嫉妬心が、殺意や破壊心に変わってしまい同級生を拉致する方向の話になった。

私は考えられない精神状態にすでになっていた。とにかくやめて欲しい、私にすべての責任義務を課せて欲しい。でいっぱいだった。

埒が明かない、パートナーは兎に角実家に帰られた、逃げに行った、自分自身から離れていく恐怖心と嫉妬心で家のそばまで来ていた。

その上に会ってはいけない感情バランスであることと、恐怖心。それをパートナーに伝えると酷くショックを受けていた。

結局、あってしまったが暴論と極端な選択で心身共に極限状態。トラジディーに捕らわれたままその日は別れた。

実家の引っ越しが、翌々日に有った。ほんの一二時間睡眠で翌日になり引っ越しの準備をした。それが八月二十七、二十八日だ。

その中でも、パートナーの発言と行動が気がかりだ。精神状況があまりにも悪すぎる、私に酷く固執するように見えた言動はかなり脳裏にこびり付いた。

気が気でならない、自身を保つためにも実家がある市のDV相談センターに電話をした。

私としては、これがDVに当てはまるというのなら今後付き合っていくとしても何か保険というか自身を守るための武器を作っておきたく意見を問うた。

センターの人曰く、はっきり言い切ることはセンターの指示の下出来ないが一応当てはまるというのだ。そして担当してくださった方個人の意見としては、DVに当てはまると思います。とのことだった。

とりあえず、当てはまるということならば痛めた証拠を取っておくことにした。まずは現状の写真。

そして、痛みも程々に有ったので整形外科に受診した。それなりに負傷しているのなら一筆貰おうとしていたぐらいだ。

結果は、打撲で済んでいたのでシップだけを貰い帰宅し、引っ越しの準備に取り掛かった。

その間も勿論悪阻がある。準備をしているとまたパートナーから電話がかかってきた。兎に角緊急事態だから出ろ、というメッセージを添えて。

電話に出ると、引っ越しが終わると何時に帰るのか?母親と縁を切らないのか?とにかく飢えた状態だった。

これは、気持ち悪い特技だが、パートナーの言い癖を直訳することが出来るようになった。

言いたいことは、『とにかく早く帰ってきて欲しい、いつ帰るのか僕に解る様に言って?はなれたくないよう…。』ということだ。

兎に角、私は覚悟が決まっている。もちろんここまでの話になってくると少なくとも条件というものも発生する。

私の条件というのは、母親と縁を切らない。パートナーが離れさせてくれたおかげで本当に少ないかもしれないかもしれないが気付くことが沢山有った。

その状況でまた、逃げるように縁を切ることは出来ない。それは言い切った。

パートナーは半ば不服の心と理性と闘い、了承してくれた。ただ、次二人の関係に母親が入ってきた瞬間に、私たち自身が縁を切るということになった。

帰る時間は、引っ越し翌日朝九時を指定してきた、寝ていても怒るなという言葉と共に無理にシャットダウン。無理がある。

引っ越しも無理矢理終わらせ、妊婦の体はくたくただった。

翌日二十九日、朝八時にしっかりとショートスリープの後に起床して、パートナーの家に向かった。

案の定寝ており、一時間ほど暑い廊下で待機しその後開けてくれたが寒すぎる部屋で待機。死にそうになった。

仲直りしても、すぐ破滅する精神状況だった。お互いに抱えている悩みが一向に減るわけではなくお互いを支え合う器量というものが無くなった。

そこから、パートナー家の引っ越しにも手がかかった。パートナーとしては、妊娠していることを私の母親に知られたくないために私の二十歳の誕生日の九月十四日まで、産婦人科に行かない。と言い切った。私はその時点で大切にされていない。と思い知らされた。

もう、好意や情なんて新聞紙より薄いぺらぺらの気持ちだった、投げやりに私がどうなってもいいのね。と言わんばかりのことをなげうって母親に最後のSOSを出した。それまでに、机越しの暴力、度重なる暴言、心身ともに崩壊。

翌日、九月四日。朝十時頃。

私の携帯には、下四桁一二三四の番号からの連続コール。 玄関前からの圧力。

パートナーが、玄関を開けると現実が押し寄せた。

複数の刑事が、パートナーに『彼女の所在を明かしなさい。』と伝える。

私自身こうなることは、極度に嫌悪していた。母にもこれだけはやめてくださいと言っていた。

パートナーの二十歳を超えての背負う気持ちと、母親の二十歳までの焦りが衝突した瞬間だった。

刑事が、私が寝ているところまで来ると、『大丈夫です、状況は把握しています。』とだけ伝えた。

全て一から十まで伝えた。こうなった心理もすべて。パートナーの状態も少なからず理解していたので擁護するわけでも正当化するわけでも無いが、かばった。

でも、現実も知らないと自信を守れないとも思い市のDV相談センターに聞いたことを聞きなおした。

刑事の応えは、悲しかなDVに匹敵しDVの加害者のループにお互い嵌ってしまっていることを伝えられた。

まだ、ぺらぺらな好意や情があるが故に涙が止まらなかった。好きな人を、そうさせたくなかったしそうなってほしくなかった。

私が被害届を出してしまえば、起訴されている上の加害。一発実刑になってしまう。

それだけは嫌だ、と思い最大の擁護で被害届を提出しなかった。女性の刑事はとても反対していた。

パートナー側に着いていた刑事が、母親の関係性とパートナーの言葉を吐き出した。

『今度、お前の母親が首突っ込んできたりしたらお前と縁を切る。』と言われた言葉が脳内を木霊する。

仕方ないとは言えないが、仕方がないもう。私のせいではない。と思いたい。今も。

言い返す術もある訳が無く、悲しみにまみれた二人の小さな体で数カ月の思い出と荷物をぐちゃぐちゃに混ぜて家を出た。

最後のパートナーの顔は、不明瞭でこの世にある言葉じゃ言い表せられないかおをしていた。

実家に帰る途中、パートナー側に居た刑事に母親の関係性と精神疾患に触れられた。不信感だ。

実家に着いてから、共通の友達に今までのことをすべて話した。

言うなと止められていた事、今まで相談できなかった理由、現状、これからの事。

何一つ残らなかった。とにかく病院に行ってちゃんとお別れすることしか考えられなかった。

すぐに産婦人科に行った。

初めて妊娠してから受診した、ちゃんと子宮に小さな命は宿っていて私がどれだけ悪阻で食べられなくても精神衛生が悪くてもその命は一生懸命に生きていた。

手や足、頭、そして心臓。しっかりと確認できた。医者に継続でよろしいですか?と聞かれたが、堕胎しますといったときの心の痛みと医者の顔が忘れられない。

その時点で九週二日だった、来週中に病院を決めなさいと言われ、大切なエコーの写真を握りしめ診察室を出た。

待合室で携帯を確認すると、パートナーから『もう関わらない。』と一文。

私は兎に角、体優先で過ごしていくことばかり考えた。

夜ごはんを食べたころ、パートナーから夜十二時頃に電話かける。と来ていて寂しさが押し寄せたのかなと思った。辛かった。

あっという間に、その時は来て電話をつなげた。

最後の電話だった、なぜこのようなことになったのかの話し合い。

初めは、私はもう二度と関わらないと思って居る気持ちも有ったので、半ば投げやりだったのだが圧が兎に角凄かった。

庇って欲しかった、と言われたとき、あの時刑事に不信感を持ったのはこういうことなのかと察した。

全て話し合った、言いたいこと言えなかったこと、思って居る事思っていた事。

私もパートナーも最後の電話だと思いすべての話をしていたのでとにかくたくさんのことを話しした。

本当の、本当の気持ちも。

そうしていると、母親が乱入。

『アンタの事何も考えてくれていない奴と電話する資格が無い。』『親に愛されていないから暴力も振るうし犯罪者になるんや。』兎に角、かなり耳をふさぎたくなるような罵声を投げかけていた。

次第にパートナーは声に気力がなくなっていった。

パートナーから『お前はどうしたい、なんでもしたらいい。今まで出来たことを思い返せ。お前は最初出来なかった母親に自分の気持ちを伝えて反抗と世の中が言う凄いことをした。それで何を得た?今の母親はどうなのか?何か良い方向に変わったか?お前は何がしたい?最後の俺が助けてあげられるタイミングやぞ。』と。

また元に戻るのも恐い、そして母親の気持ちも理解が出来るし助けてくれた。逃げてばかりいるから何一つ選択が出来ないし、正直その時に判断できる状況じゃないと、ある意味判断した。

『このまま、元に戻るか?後悔と生き続けるか?』それで沢山だった。

パートナーは、兎に角後悔する方をもう選んでほしくない。やりたいこと思って居る事出来なかったことを取り換えさせてくれるように、してくれている。

そして、好きで大好きで愛している気持ちが募り過ぎて壊してしまった懺悔の意を表すように、一言言った。

『これからは、俺のヒトリゴト。十月十一日、あの公園で待つ。そこにお前が来なかったら俺はあきらめきれる。今は諦められない。』

初めて、極端じゃなく急かさない選択方法をくれた。それはそれでとても辛いことだけど、今までとは違う。

涙でいっぱいだが、心の枷がすべて下りた様な感覚だった。救われたと。

母親はまだ、怒り狂っている。

『本当に愛していた、いや、愛している。本当はまだたくさんしたいことある。壊してしまった。』

『もし、次会うことが出来たらお前を超える人間はいないと思う。』

『本当にありがとう。』

『じゃあ、ね。』

期待させた、出来るかどうかも解らないけど、『なんとかします』といって自分自身を奮い立たせるのが癖で。

大丈夫だ、と過去の自分に励まされた。

そこから、手術の日まではあっという間だった。

入院初日、診察と一次処置。ラミナリア稈という昆布の茎を乾燥させ棒状に加工した医療器具を子宮口に入れ水分を含ませ、膨張させ開かせるという原始的な処置なのが、一本入れるだけで私は痛かった。

ごめんなさい、自分自身の責任の取り方がこれしかなくてごめんなさいと自責の念で何とかやり切り、夕食をつわりで残してしまった。

まだ痛みが酷い中、第二次のラミナリア稈挿入が始まった。

処置室が開いていないということもあり、出産中の隣の分娩室で処置がはしまった。

痛み止めを飲んでいるから大丈夫、頑張ろうね。と励ましなのかなんなのか解らない助産師さんの言葉を信じて挑戦したが、大悶絶。

激しい痛みと、出血が治まらず、大号泣と叫びで室内はいっぱいになった。

隣で、新しい命と出逢っている中私は別れるための痛みを背負っていて身も心も痛くてたまらなかった。

いっそのこと、辛い気持ちをたくさん背負ったままこの子と死ねたら、よかったのに。とも思った。

でも、それは許されない。赦してくれない、パートナーも子供も私も。

処置が、中止されそのまま病室に帰って痛みと疲れで気絶していた。人生数回目の気絶。

バイタルチェックに来た看護師さんの声で目が覚め、熱と血圧を測ると、熱が出ており低血圧になっていた。

看護師さんも少し焦っていた。

すぐ消灯時間になったが、もちろん寝れる訳が無い。痛み止めは効かず次の処方が午前零時。それまで起きていた。

そして何より、明日お腹にいる我が子と別れることになる。とてつもなく苦しくてこの上ない寂しさでいっぱいになった。

会いたい、共に生きたい、けどできない、ちゃんと大切にしてきてない、でも寂しい、辛い、ごめんなさい。

人生で体験したことのない、喪失感と虚無感と。明日を迎えるのが辛くて辛くて涙が止まらなかった。

パートナーのSNSを見ると、この人もベクトルは違えど似たような気持で押し殺されそうになっているようだった。

連絡、欲しい。話がしたい。最期だから。

そう思って居ると、なるはずのない通知音が鳴り携帯を見るとパートナーからだった。

こんなことがあるのか?と正直気持ち悪く思ってしまった。

『待たなきゃいけなかった、けど話したくなった。』

そこから始まったことはたくさんの本音があふれていた。

本当は傷つけたくなかった、けど離れていくのがとても怖かった。束縛も暴力もしたくなかったのに、ごめんなさい。

言葉や話で解決できなかった。解らなかったし出来る状態じゃなかった。

暴力や犯罪者言われたとき、死のうと思った。その前にも離れられたくなくて殺してしまおうかとも思って居た。

病院に行った、愛着障害と言われた。愛情が欠けていた。

でも次があるのなら、否定的なヒトや理解が無いヒトはすべて捨てて全部あなたの事を背負う。

一生をかけて背負う、だから離れないで。ごめんね。

私は、同等のことが出来るのか?考えた。それには沢山してもらわないといけないことが有り過ぎた。

まず、犯罪行為ととられることをしない。次もし被害を被ったら我が足で署に向かうことを伝えた。

そうすると、『絶対しない。ただ、前みたいな愛し方をしないで。もう離れないといけない事しないで。』と言われた。

私も不信感や猜疑心を持ちながら、付き合っていた。それが仇となった。

なら、結婚。そして死。妊娠、出産。これから起こりうるすべてに責任と努力をお互い本気ですることを誓わないと出来ないと思った。

パートナーは、親や友達をも捨ててまで好きな物に、愛している人に捧げるなら、私も証明しなければならないと思った。

私の、成りたいもの。私の、好きな事。私のやりたいこと。

私は、母に成りたい。強くなりたい。そして然るべきときに死にたい。

私が一人になっても、終結しない様に。子や、男をも背負える者に成りたい。

もし、その気持ちが消えなければ私はそうなる努力をする。そしてそれと共に貴方とも過ごしたい。

ならどうするべきか?一つしかなかった。

私は、母と縁切るどうのこうのではなく、何も非難されることなく普遍的な日常を過ごしていく。

それをやりたいように。

そこに、パートナーが居ている想像が出来てしまった。後戻りはもうできない。

それを伝えると、パートナーも応えてくれた。

一生背負い、一生を添い遂げ、そして然るべきとき共に死ぬと。

それが結婚というのなら、来年の五月に籍を入れましょう。と。

私はもう逃げたくないし、逃げられない。捨てるものももうない。

強く前を向いて生きるしかない、四面楚歌でも這い蹲っていても死なない。まだ終わらせない。

今まで死ぬことしか考えられない、終わらせることしか知らなかったから新しい境地に足を踏み込んだ感覚で恐怖心もあれば楽しみな気持ちもある。

頑張るというワードはこういう時に遣うのだと思った。

パートナーから意外な言葉が出た。

私が、今回の子供はねきっと男の子だろうし機嫌がいい日と悪い日が顕著に表れていたの。と言っていた時だ。

正直、発覚したとき不安が一番有ったけど少し嬉しかった。』『お前との子供じゃなかったらここまで考えることも思うことも無かった。』

『お前との子供でよかった。ありがとう。』と言われた。

明日、別れる悲しさともう一度会うことが出来るという確信でいっぱいだった。

令和二年 九月十一日、金曜日。

すぐに日は登り、とてもきれいな空が広がっていた。

久しぶりの快晴だった、きれいだけど辛い。

手術着に着替え、抗生剤の点滴を入れる。二名の看護師が迎えに来る。ベッドを手術室まで搬送する。

手術のストレッチャーに乗り換える。静脈の全身麻酔の為、拘束帯をまかれる。

心電図モニターを付け、パルスオキシメーターを人差し指へ。

自分の全てが音声となり無機質に流れる、耳から脳へ。そしてだんだんとテンポが上がる。

足は開脚、最後に下腹部に手を当てた。ごめんねとまたね。

麻酔科が頭部のそばで、もう楽になるからね、少し腕が痛むけれども頑張ろうね。

その言葉の数秒後には、白い景色。

手術終了後、ICUから病室に移るころ沢山話しているのを覚えている。内容は定かではない。

病室に戻り、意識がだんだんと回復したころ、暗い顔をした看護師にそっと一言。

『もうそこまで自責しなくていいよ。』と言われた。

なにごとかは把握できていないので聞くと、手術中眠りながらも『ごめんなさい』と謝り続け、強くなってまた会えるように頑張るとさんざん言っていたそう。

本音は、そうだ。『ごめんね。』で精いっぱい。自分たちの所為でこんなにつらくなるのかと。

でも、手術前に約束した。

私は何が何でも強くなってあなたと会えるように成るから、また私の元に来て欲しい。我儘な母親でごめんなさい。次は沢山我儘を聴くから。

手術が終わって、虚無感で埋もれるかと思ったら何か暖かくで体に一緒に何かいる感覚でとても軽かった。

嗚呼、寂しがり屋の私を知っているのかな?とか一緒に、共に背負って過ごしていくとはこういうことかと。思った。

暖かくて、軽い。全部が包まれているような、持ち上げられているような。

手術後、パートナーに連絡をした。

よく頑張ったね、一人にしてごめんね。と言われた。

もう一人じゃないから大丈夫、と今もなお思えている。

そして、手術が終わると次は市のケースワーカーに話をする。

九月十八日、午前十一時頃。

全担当の方と、現担当のケースワーカー二名が実家に訪れた。

金銭面、パートナーとの今までの事情説明、現状説明、これからの事話した。

言われることもすべて想定内で、私の覚悟は変わらない。

母親は兎に角、同棲は所在地を明らかにすればいいと言っていた。

そして、除籍をして住むということを。

九月二十四日の晩、パートナーと少し口論をしてしまいまた電話することになった。

今回はすぐに話がスムーズに終わった。私が出来なかったこと、パートナーが出来なかったこと、お互いが少しずつ出来るようにしていた。

十月十一日、話すであろうことをもうすべて言ってしまった、というより言わなければ通じないような話だったから。

そうすると、パートナーは条件をすべてのみ、母親とよく話し合っていつでも帰ってこいと言ってくれた。

その時に、今まで一番愛していた人とか愛してくれた人の話しや性の話しやら散々した。

元々、浮気性のパートナーは今まで一番好いていたで有ろうヒトの時も浮気していたらしい。

本当の愛情や、愛情の欠落、受け方、与え方、知ったのはお前からやった、と。

何においても一番、そして一番に成りたいと言ってくれた。

私自身も本心をだすと、こんなに本気で付き合ったのも本気で愛情や行為について考えたのも、パートナーのことを考えたのも、本気で愛しているのも初めてだった。

そりゃ、ぶつかって当然だな、と思った。

そんなこんなで話は終わり、母親に話を伝えると断固拒否。

私のやりたいことを述べると、子供を殺しているのにそれを忘れて男に誑かされるのか?とかそんなんじゃ母親に成れないということを沢山言われた。

諦め、というより距離を置いて証明するべきだと思った。なぜなら今まで出来ていなかったからだ。

とりあえず、時間を置きパートナーの家に遊びに行ってみた。

とてつもなく痩せていて、顔色が最悪だった。無精髭が生えていて家はめちゃくちゃ。

食事も仕方なしに食べていたような様子で、とんでもない状況だった。

話を聞くと、女遊びもしたくない、出来ない、用事が沢山で頭がパンクしていた、鬱になってしまった、物忘れとフリーズの再発。

趣味の自転車を触るのにも大変な状況だったそう。辛かったなんて初めて聴いた。

この人、私いないと生きていけないの?イメージと違うのですが。と戸惑った。

久しぶりの再会で、可愛くなった、強くなったねとか沢山褒められた気がする。

沢山愛しあったと思う、今までの寂しさや行き場のない気持ち与えたりして埋めるのに必死。

今までの会わなかったときの事、手術の事、沢山話しないといけないことがあったけれどもとりあえず二人がそこに有ったということや二人が二人で一つだということを知りたい、共有したい気持ちで沢山だった。

また二人が出会えたらなにがしたいかよく考えたし二人はよく口にしていた。私はそれを携帯のメモ帳に書き留めていた。

もう兎に角離れるようなことはしたくない、今までの自分は兎に角猜疑心で取りつかれていたしパートナーはそれによってかなりの剥奪感というか離れていく恐怖心で沢山だった為、私はもし二人がもう一度共に過ごせるようになったら全て捧げたいと思って居た。

その日は、帰るつもりもなくお泊りしていった。

その夜、書き留めていたメモを見せた。ここまで本心を見せたり、想ったことが無かったため兎に角恥ずかしさでいっぱいだった。

中には、世で言う”ヤンデレ”問境地に達してしまうようなことも書いていた。

それを見た彼はそれを返してやると言わんばかりに“ヤンデレ節”で返事をしてくれた。

辛くなったら、僕の手で終わらせてあげよう、最期まで共に過ごす。と極端だと思うがお互いの性格上そこまで想わないと伝わらないのだ。

その再開の日は、終わった。

翌日、確か九月の二九日だったと思う。

ゆっくりの時間帯に起きて、まるで付き合って一カ月目のカップルのような目覚めを迎えた。

欲のままに、お互いを貪るのはかなり滑稽だったと思う。人生で一番だったと思う。

二度寝を挟んだ後も本能で動いていた。離したくない、離れたくない、全部が自分自身のモノだと証明するようだった。

昼?夕?ご飯を食べている時、これからのことを話し合った。

兎に角、私は同棲でなくてもいいお泊りやデートを何不自由なく出来たりちゃんとパートナーのことも私のライフスケジュールに入れられる様に過ごしたかったのだが母は福祉や行政を言い訳に断固拒否していた。

同棲はまた悲しむ子を孕む、お泊りは生活保護が切れてしまう。私が私のやりたいことをするためには兎に角実家を出て自分の生活を構築していく能力を手に入れることが必須条件だった。

別に無理矢理したいわけでも無かった、母の言って居る事も理解している。その危機を回避するのは母じゃなく私自身だということを知るためにも自立せざるを得ないのかもしれないといった。

パートナーとしては、母が娘を容認するでもなく信じる素振りも見えなくて何のために彼女は生きているのか?といったところだろう。

家を出たいなら出ればいい、自活できなくなったのなら行政に頼ればいい、それなりに覚悟しなければならないこともあるけれどそれが出来ない理由が無い。

もし、ケースワーカーに話をしないといけないのであれば、自分も行く。と言っていた。

もう、誰かのために生きるとかじゃなくて、自分の為に自分らしく生きてみたら?とも。

私の左胸に“who I am”と反転したタトゥーが入っている。

どんな意味でどんな心情でどんな理由で入れたのか?もう一度考えてみた。

当時私はパートナーと付き合ったばかり。病気も安定のあの字もない状態、母との衝突で家に居場所が無かった。

幼少期から両親が喧嘩していたり、精神状態が最悪な状態のまま過ごしてきたので慣れてしまっていた。

母親の顔色を伺って、機嫌取りをして自己保身をして、というよりそれしか解らなかった。

それにもやっぱり限界がある、私も人間だからわがままを聞いて欲しいというか、願望を言うことくらいしたかった。

それが出来ない人生経験と、その状況を隣で見続けてくれていたパートナーは『ちゃんと住居と飯はするから俺の実家でよければ来ればいい。我儘ややりたいことを言うことも世の中の常識とかに反抗するのも良いんやで。お前も人間、したい事して自分の為に生きることを覚えないといけない。』と言ってくれた。

今までだったら、私に教育してくれた母の言うことをしっかりわきまえて、『いや、親御さんにも貴方にも迷惑がかかるからいいや。』とか『お母さんが怒るから。』って自分の本心にふたを閉めて気付かない様に我慢我慢して生きてきたと思う。

けど、その時はなぜかここまで言い切ってくれたことに対しての感謝と、自分がここまで心配してもらえるように出来たことの喜びと混ざって安心感を覚えてしまった。

このチャンスを逃したら、ずっと私は誰かのジオラマの世界やその檻の中で生きることになるし、自分という存在を消すようになってしまうと焦ってすぐに荷物をもって飛び出した。

そこで、母親は母親で私が何に苦痛を感じていたのか?なぜそんな反抗を今更したのか?とすぐではなかったが考えてくれた。

そこにはとてつもない犠牲と代償が有った。母とパートナーの仲はもう修復できないと思うくらい悪くなってしまった。

これから、他人の家で過ごしていくプレッシャーや不安感が毎日押し寄せてきた。けれどこれも人生経験のうちになるのだと過去の自分を信じて過ごした。

自分が自分の為に動く事、とても辛いことも有るけれど変わる大きなきっかけになる。と経験して大切さが身に染みてわかったから身にわざわざ刻んだんだと思い返した。

その時も、恐かった。もう二度とお母さんと仲良くなれなかったらどうしようと思った。

死ぬまで会えなかったらどうしようとも思った。でも、私のことも母親のことも信じて家を飛び出した。

結果、私はよかったと思って居る。ただ、戻った時の状況が悪すぎたからそれさえ無くして私が私らしく生きているよという姿を見せたいと思った。

それが出来る人間だということも信じているし、共に過ごすパートナーにも信頼するしかなかった。

変なことを言えば、仮に二人の終わりが来たとしても自立や自活する練習をさせてくれたともいえる。

『今のお前、めちゃかっこいいよ。大好きよ。』『ちゃんと決断してくるのしっているよ。』

という言葉をとどめて、その日はパートナーの家を後にした。

夜、八時ごろ実家に帰ってきた。

案の定、母親は激怒していた。

許可も無く外泊したこと、保護の下で外泊すること、傷物にした男の家に行ったこと。とにかく怒り狂っていた。

私はやりたいこと、その理由を淡々と述べた。

『私は、パートナーの家で同棲がしたい。なぜなら今の状況でカップルらしいことをすることは行政や法律が許してくれない。それならば、除籍をして、戸籍を移して、同棲の形にする。資金も無い状態で、独り立ちをすることは極めて困難だと判断した。そして今の時期に動くのかというと、実は十月の十一日に話をしてもう同棲に移るということは見えていた。パートナーはお金もない、心もつらいのなら、実家に住んで休みの日や開いているときは会ったり泊りをすればいいと言ってくれていたのだがそれは出来ない状況だから、極端に同棲という状況に至った。それをもしするという決断をすればもちろんケースワーカーにも母にもどの面下げていいかわからない。一度家を出たなら最期まで責任を私が負います。』

と説明をしたが、母は『なぜ今なのか?』『なぜあの男じゃないといけないのか?』『そんな状況を過ごしていてもつらくなるし母親にはなれない』『また孕まされるそ。』『子を堕したときの気持ちはもう忘れたのか』と兎に角激怒していた。

母親の気持ちも本当に心の底から理解できる、もし自身の我が子が同じことを言ったら同じことを言うと思う。心配で不安で仕方がないと思うけど、我が子をそこまで動かす何かがパートナーや環境にあるのかもしれない、もし失敗したら帰ってこれるようにちゃんと挑戦できるように自分も頑張ると思う。

とても怖い境地に足を踏み込んでいく理由と心理を理解しろとは言わないけれど何かがそこにあるということくらいは理解してほしかった。

もうやってられない、またもとに戻ってしまうとい気持ちが先走って、荷物を纏めて実家の鍵を置いて家を出た。

今回に関しては、前の時よりも本気の覚悟を決めていたので武者震いをする程の状況で家を出た。

パートナーに連絡すると『ほら、やっぱりお前今日中に出るやん。迎えに行くね。』と笑いながら言われた。

不安や不満、今までの自分なら、その一瞬の覚悟で受けた感情に殺されていただろうと思う。

恐くてたまらない、やってみたことのない境地に足を踏み込むことは自殺行為と似たところがある。

でも、強がってしまう私はいつも周りの人に『大丈夫。何とかなる。』と言っていたけれどパートナーだけは『大丈夫じゃなかったからこうなってんだろ。』とちゃんと手を伸ばしてくれている。

本当に人生が変わった。今まで本当に死にたかった、終わらせることしかわからなかった。けれど今は違う。

九月の二十九日に同棲が再スタートした。

寂しがり屋で愛情に欠けていて独りじゃ何もできない、壊す事しか知らなかったパートナーと

寂しがり屋で愛情を毛嫌いして独りになりたがる、終わらすことしか知らなかった私と

これから、二人(あと一人)で共に過ごしていくことに成りました。

不安と、焦りと沢山辛い感情や出来事があるだろうけれど、いつか、いつか約束したすべての事やり切って

然るべき生き方をし、然るべきときに、然るべき死に方をする。

自分たちの、共に生きるはきっと歪んでいるのかもしれないけれど、これしか今は出来ない。

無理して変えようとも、常識に則って生きようともハナから思わない。というより二人とも常識外れだから生きられない。

いつか、両方の親に面と向かってちゃんと生きているよと言える日を迎えるため今を精一杯生きようと思う。

(執筆日は十月二日ですが、掲載日は十月六日です)

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