東大大澤昇平事件を、大澤=三浦瑠麗=マンキューソ問題としてみる必要性─差別の効果に関与し抑制する大学の責任

11月20日に「中国人は採用しません」などとツイッターで差別を煽動した東大大澤昇平氏が大きな問題となった。だがSNSをみるかぎり、世間の東大への批判はおさまりをみせつつあるようだ。東大の情報学環が24日付で声明を出し、先週調査チームを立ち上げたと公表されたことは大きかった。

ところが、当の東大大澤昇平氏はひっそりと今日、次のツイートを投稿した。

大澤昇平氏が投稿した「サルでもわかる」解説

大澤氏はあくまでも自分が差別したとは認めず、AIの「過学習」のせいだとしている。それでも批判は止まない。だから「サルでもわかる」解説を世に送ったというわけだ。

氏はまったく何も反省していない。

大澤氏は自分がなにをしているのかさえも、恐ろしいことに、わかっていそうにない。

氏のAIをもちだせば差別を正当化できると考える理解がいかに間違っているかは、これまでの連載(下記リンク)を読んでもらえればわかるので、今日は別の角度から問題を考えてみたい。

いったいなぜ、大澤昇平氏はここまで開き直った態度を取り続けることができるのか?

それは、東大の大澤氏への態度が、まったく不十分だからだ(なぜ不十分かは以前の記事に書いた)。

問題は東大の差別への甘さが、大澤氏に責任を取らせていないこと

もしも東大の情報学環長の声明や調査チーム立ち上げなどが実効的だったなら、どうして大澤氏がいまもなお自分が差別したと認めることなく、見苦しい弁明を続けることができるのだろうか?

(言ってしまえば、大澤氏は差別を開き直り、「過学習」について誤解した世間に対し、「サルでもわかる」解説を紹介したわけで、これは差別に憤慨する人や被害者をあざ笑い、神経を逆なでする愚行以外のなんであろう。そんなことを東大は、東大の肩書を大澤氏に与えたまま、許しているのである)

問題は東大なのである。「天下の東大」の教員でさえ、教員が差別事件が起きた時に、どうしたらいいか、まったくわかっていない、というのが問題の核心である。

このことは東大に限らない。

「差別に反対する」と言ったとき、日本で見落とされている決定的な問題

じつは戦後日本社会の良心的な知識人でさえ、じつは差別事件の加害者にこれ以上差別させないためにはどうしたらよいのか、という難問に、明確な回答をだしてこなかった。

今回の事件も、「スリーパーセル」発言で差別を煽動した三浦瑠麗氏の差別も、「バカチョン」などと差別を繰り返す一橋大学のマンキューソ准教授の差別も、そのツケのせいで大学が差別を抑止できない問題だと私は確信している。

時間があまりとれないので、少しずつ、この問題について必要なことを指摘していきたい。以下は問題を整理するための試論であることをお断りする。

日本型反差別が決定的に見落としている問題は、加害行為と加害者をどう止めるかだ

戦後日本社会で「差別に反対する」と言ったとき、欧米の反差別では前提とされているが、日本ではまるで見落とされている、重大な問題がある。これを明確につかまなければ、いまの日本で差別に反対することはもはやできない。このことに警鐘を鳴らしたい。

「差別に反対する」と言ったとき、たとえば日本では次のような事柄を思い浮かべるのではないか。

①差別に反対の声を(漠然と)あげる(反差別の声)
②加害者を説得する(説得)
③被害者を救済する(被害救済)
④差別に関する正しい知識を広める(啓蒙)
⑤差別を未然に防ぐための教育(反差別教育。重視されるのは被害、被害者、被害者という集団=マイノリティ、マイノリティの歴史、相互理解・交流…)
※このような選択肢をとるかぎり、じつは差別と区別に区別をつける必要はなくなる。というのも差別の定義をマイノリティの「声」に押し付ければよいからだ。

本質的に、視線は被害と被害者に向くのであって、手段はあくまでも説得・コミュニケーション・啓蒙・教育など。被害とマイノリティを知ることが反差別の基本となる。想定されているのは、差別が無知や無意識からくるものであり、だれもが差別しうるということ、だからこそマイノリティを理解することが差別をなくすことにつながるのだ、という理解である。

それに対し、たとえば次のような選択肢は思い浮かぶだろうか。

⑤加害者の差別を止める(差別行動を阻止する)
⑥加害者が今後これ以上差別しないよう抑止する(加害者の行動を制約し差別を阻止)
⑦差別による社会的な煽動効果に関与しその効果を抑止する(加害者の差別行為が産み出した煽動効果に介入しそれを抑止するアクションをとる)
※このような加害者の抑止にまで踏み込む以上、抑止の主体は社会でなければ正当性はないし、差別と区別に区別をつけることは必要不可欠となる。

視線が被害者とは反対にいる加害行為と加害者側に向く。手段は加害を抑止しうるアクションとなる。たとえば非暴力直接行動・加害者を傍にいる人が止めるなどする第三者介入・ヘイトウォッチ(差別と極右動向の記録)・公共施設や空間を使わせない・警察に取り締まらせる・SNSでの差別加害者情報の発信・被害者に対してだけでなく社会一般に発信される再発防止を強く意識した反差別声明などなど。

ここで想定されているのは、日本型反差別が想定するような、無知と無意識からくる、誰もがしてしまうような差別ではない。確信犯的に、意識的に、ときに組織化された形をとるタイプの差別が起こりうると想定されている。

これである。

これこそ楽観的な日本型反差別が全く考えてこなかったものだ。

こういう確信犯的・意識的・組織的な差別行為と、差別主義者(極右)には、日本型反差別は全く歯が立たない。(主にマイノリティの被害や疎外を強調したタイプの)説得・コミュニケーション・啓蒙・教育は無意味だ。場合によっては揚げ足を取られて攻撃のネタにされるだけ有害にもなりうる。

歴史的にナチズムや黒人奴隷制を経験し、反レイシズム運動の結果、確信犯的な差別主義者による破壊から、社会を守らねばならないというコンセンサスを培ってきた(これが反レイシズム規範だ)欧米では、反差別=加害者抑制は当然の前提となっている。このように確信犯的・意識的・組織的な差別に対処するため、加害行為と加害者とを、実際に止められるだけの実行力をもつ手段を当然用いる。

このように書くのは、日本型反差別の決定的な弱点を直視してほしいからだ。日本型反差別はそれが主観的にはどんなに被害者やマイノリティに寄り添っているようにみえようとも、加害者を抑制することができない点で、致命的な弱点を抱えているのである。

2000年代後半以降、ヘイトスピーチが頻発し、極右が台頭してきている理由は、日本型反差別の致命的な弱点を克服できなかったところにある。

東大大澤昇平事件は、三浦瑠麗氏の差別や、一橋大学のマンキューソ准教授の差別を大学がとめられなかった失敗から教訓を引き出していないからこそ起きている

問題が多すぎて書ききれないので、この項はまた改めて書くことにする。

結論だけ書いておく。

今回の東大大澤昇平氏の差別事件は、東大が差別に反対できなかったから発生したし、いまなお被害を止められていないのである。

2018年2月に三浦瑠麗氏が「スリーパーセル」発言で差別を煽動したとき、東大はまったく何のアクションもとらなかった。そのときに差別にキチンと対処し、三浦氏を処分し、差別煽動の効果を抑制しうるアクションを取っていれば、今回の事件は防げただろう(このことは下記記事に既に書いた)。

また2016年12月以降、3年にわたり非常に深刻な差別を繰り返しているジョン・マンキューソ一橋大学准教授も同じだ。

マンキューソ氏も「バカチョン」「グーク」「朝鮮人は頭がおかしい」「精神病院にいけ」などと授業やSNSなどで暴言と差別を繰り返している。

だが本当におそろしいのは、マンキューソ氏が差別をエスカレートさせた決定的な要因が、一橋大学のハラスメント委員会の不処罰の決定だということだ(詳しくは下記リンク先か、こちらのマガジンを)。

私は真剣に危惧している。

東大情報学環が11月24日声明で大澤昇平氏の差別ツイートを、差別だと明言できなかったのと同様に、立ち上がった調査チームが彼の差別をハッキリと差別だと認めない場合、あるいは認めたとしても極めて不十分な処分や再発防止措置しかとらない場合、大澤昇平氏が今以上に大々的に自分の差別を正当化し、差別煽動が激化されないだろうか、と。

また大澤氏でなくとも、かれのフォロワーや、かれを真似した誰かや、あるいは日本第一党などの極右活動家や政党が、AIやIT業界の慣行や中国政府脅威論などをつかい、大々的に差別を煽動するのではないだろうか、と。

つまり東大は、対外的に、社会に向けて、大澤昇平氏が引き起こした差別だけでなく、その差別が引き起こしたマイナスの社会的効果に関与し、その抑制に努めなければならない。(ひいては、東大の11月24日声明が大澤氏を安心させ自分の差別を正当化する行為を激化させたことについて、またその後に続いたマネックスグループほか関連企業に悪しき前例を与え、明確に差別を抑止するメッセージを出せなかったことのマイナスの社会的効果に対する関与を含む)

一旦以上とする。

※以下、今後の為の補足。

(ちなみになぜ日本型反差別が被害者に寄り添っているようで加害と加害行為の抑止を課題にできなかったのか。改めて書こうと思うが、その重要な理由の一つは市場原理に親和的な戦後日本の「自由」観にある。加害者の差別行為を止めるということは、その人の「自由」を奪うことになる。この「自由」観を前提とする日本型反差別は、差別する加害者に対し、差別する「自由」には手を付けず、あくまでも加害者本人が差別を「自粛」(大澤氏のツイートでもこの語が用いられた)することを望んだわけである。説得やコミュニケーションや相互理解や教育という手段が好まれた理由はもう一つある。何が差別で何がそうでないのかの規準も、社会が定義することなく、マイノリティの「声」に委ねることで、押し付けることができるからだ。社会が主体となって差別する加害者の「自由」を抑制することはおろか、共通言語として差別を社会が定義することさえも回避して、現実には不平等で非対称な関係におかれたマジョリティ/マイノリティのあいだで「自由」にコミュニケーションを行い、差別の被害や疎外を語るマイノリティの「声」を思想の自由市場の中で流通させること。正義としての社会規範なき、マイノリティの承認。これが日本型の反差別ではなかったか。)

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