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データからアートへ:創造性は組み合わせの妙

先日、Twitterでひとつの投稿を目にした。主旨はこうだ。

・AIの創造性は幻想である。
・AIは学習データの組み合わせでアウトプットを生成しているだけ。
・データは有限なので、いずれパターンは収束してしまう。
・AIの創造性とは、性能の低さゆえに生じるハルシネーション。
・AIの性能が上がると、より最適な回答を出力するようになる。
・その結果、出力のバリエーションは逆に減る。

なるほど。確かに一理あるようにも思える。

一般に、創造性というと「0から1を生み出す能力」みたいなイメージがある。誰もが思いつけるようなことではなく、まったく新しい視点やアイディアを提示する。そんな能力が創造性だと思われている。

特に芸術の分野では、創造性は人間だけが持つ特別な才能だと言われてきた。機械に創造性なんてありえない、と。

AIの創造性についても同じように思われているのだろう。膨大なデータを学習して、その組み合わせからアウトプットを生成するだけ。所詮はデータの範囲内でのお遊びに過ぎない。

AIに創造性なんてない。あるように見えたとしても、それは本当の意味での創造性ではない。多くの人は、そんな風に感じているのではないだろうか。


でも、本当にそうなのだろうか?確かにAIの創造性(と見えるもの)は、データの組み合わせに基づいている。しかし、それは人間の創造性も同じではないだろうか。

人間の創造性だって、経験や学習の蓄積の上に成り立っているはずだ。過去の知識や記憶を組み合わせ、新しいアイディアを生み出す。その意味では、人間の創造性もデータの組み合わせと言えないだろうか。

この問題を考える上で、囲碁AI「AlphaGo」の事例は実に示唆的だ。

AlphaGoは、2016年に当時の世界トップ棋士、イ・セドル九段との対局で勝利を収めた。囲碁は、長らく人間の創造性や直感が重要とされてきたが、AlphaGoはその常識を覆したのだ。

AlphaGo登場以前から、コンピュータの計算能力の高さは広く知られてきた。囲碁の終盤においては読みの確かさが勝敗を分け、読みの確かさは確率論によって導出可能。よって、終盤で拮抗した状態になれば、コンピュータが有利だろうという分析だ。

しかしながら、トップレベルの囲碁棋士は、特に序盤、創造性が必要とされる布石段階で圧倒的な力を発揮する。これにより、人間とコンピュータが互角の形勢で終盤に突入すること自体があり得ないだろう、というのがほぼ統一された戦前の予想だったと言える。

ところが、AlphaGoは、創造性が求められる布石の段階でも、人間のトッププレイヤーを圧倒する能力を示した。このことは、囲碁という人間の創造性が重要視されていた領域においても、AIが優位に立ったことを意味する。

特に注目すべきは、AlphaGoが示した革新性だ。従来の常識では考えられないような、奇抜な手を指すことで、AlphaGoは人間を凌駕した。

AlphaGoの革新的な手は、実況解説に臨んだプロ棋士たちを困惑させた。対局中、解説者たちは次々と繰り出されるAlphaGoの意外な手に、これ以上ない困惑を示す。「不思議」「あり得ない」と言い、人間の感覚では理解できないと語った。

プロ棋士の目からは、AlphaGoはミスばかりしているように見えた。しかし結果は、AlphaGoの圧倒的な勝利。従来の囲碁理論では、AlphaGoの手を説明できないのだ。この一連の出来事は、AIが人間の理解を超えた領域に達していることを示唆している。

AlphaGoは単にデータを丸暗記しただけではなく、自ら学習し、新たな戦略を生み出した。その結果、真に革新的と呼ぶにふさわしい力を示したのだ。

ここで重要なのは、AlphaGoの革新性が、従来の「創造性」の概念に変更を迫るものだということである。

従来、創造性は人間の意識に宿るものだと考えられてきた。アイディアを生み出すのは人間の心であり、機械にはそれができない。0から1を生み出すのが創造性であって、1+1から2を導き出すことを創造性とは言わない。そう思われてきたのだ。

しかし、AlphaGoは、この常識を覆す。

AIは膨大なデータを学習し、それを組み合わせることで、人間の想像を超える新しいアイディアを生み出していく。つまり、創造性とは、既存のアイディアを組み合わせて、革新的なアイディアを生み出す能力のことなのだ。そう考えれば、AIにも創造性はあるのだと言える。

もちろん、囲碁はルールが明確に定められた世界であり、芸術のような自由度の高い分野とは異なる。AIの創造性を全面的に肯定するには、さらなる議論が必要なのかも知れない。とはいえ、AlphaGoの事例は、AIにも十分以上に創造性と呼べるものがあることを示している。

AIの創造性。それは、人間の創造性と、どこか本質的に違うのだろうか?


興味深いのは、AlphaGoの手が「気持ち悪い」と、生理的な拒絶感を伴って評されたことだ。

それは、AlphaGoの手が(これまでの)囲碁の常識に反していたからだろう。囲碁の実力者は、棋譜を単なる石の配置としてではなく、一つの物語として記憶している。その物語から大きく逸脱する手は、彼らにとって「気持ち悪い」ものに感じられるのだ。

『ヒカルの碁』には、こんなエピソードがある。(主人公のライバルである)塔矢アキラ(←とても強い)が、目隠しをしながら囲碁の対局をする場面。ある程度の実力者には問題なく勝利するものの、初心者との対局に苦戦するのだ。

初心者は、囲碁の常識や定石を知らない。だから、予想を裏切る、非常識な手を打ってくる。常識という物語から外れた手に、目隠ししたアキラは苦戦する。

小畑健『ヒカルの碁』より


AlphaGoの手を「気持ち悪い」と感じることも、同じ理屈だろう。それは人間の囲碁観から大きく外れていた。だから、多くの棋士が違和感を覚えたのだ。

AIの創造性は、人間の常識という枠組みを超えている。囲碁の場合、結果的にAlphaGoが勝利を収めたことで、その「気持ち悪い」手も正当化された。勝利という明確な基準があるからだ。

しかし、芸術の世界に勝ち負けはない。だから、AIが生成する「気持ち悪い」作品は、「ハルシネーション」として容赦なく排除されてしまう。排除され続けた結果、出力のバリエーションが減ることになるのかもしれない。

ここで問題となるのは、AIの創造性ではなく、人間の創造性だろう。

人間は無意識のうちに、既存の価値観やパターンに囚われている。新しいものを受け入れることを恐れ、既成概念の枠から抜け出せない。AIの革新的な一手を「気持ち悪い」と感じてしまうのは、まさに人間の創造性の限界を示しているのではないか。

むしろ、「気持ち悪い」と感じる表現こそ、創造性の発露と言えるのかもしれない。

ピカソの「アヴィニョンの娘たち」は、キュビズムの誕生として広く知られる作品だが、当初は「ピカソは気が狂ったのではないか」と心配されたそうだ。また「音楽の歴史を変えた」と評されるストラヴィンスキーの「春の祭典」も、初演時には観客が「暴動」と呼ばれるほどの反応を示したとか(これは後の誇張表現らしいが)。

「気持ち悪い」と感じる表現こそが創造性の発露だとすれば、我々は自身の感性や価値観を問い直す必要がある。AIが膨大なデータから新しいパターンを見出し、人間の想像を超える表現を生み出すことも、創造性と認めるべきだろう。

加えて、結局のところ、創造性とは既存のアイディアの新しい組み合わせに他ならない。「アヴィニョンの娘たち」もアフリカの彫刻にインスパイアされて制作されたという。

従来、創造性は0から1を生み出すことだと思われてきた。しかし実際には、(四捨五入すれば0である)0.1を10個集めて1とすることが創造性の正体なのだ。1+1から2を導き出すことと本質的に変わらない。

つまり、人間の創造性とAIの創造性に根本的な差異はない。新たなアイディアとは、人間の意識の中で神秘的に生み出されるものではなく、人間もAIも、既存の情報を新しい形で組み合わせることによって生み出している。

もはや、ルールが明確な世界では、人間はAIに太刀打ちできないだろう。ただ、現実の世界はそう単純ではない。様々な価値観が交錯し、絶対的な正解などない。そういう意味では、人間の創造性が意味を持つ領域は、まだ残されているはずだ。

そして、創造性とは、単に既存のアイディアを組み合わせているに過ぎない、という見方は、ある意味で、天才ならざる一般人にとっては朗報かもしれない。革新的なアイディアは、天賦の才能によって生み出されるのではなく、誰にでも導き出させるということなのだから。

AIの発展は、創造性の本質を問い直すきっかけを与えてくれた。そして皮肉にも、人間の創造性の可能性を再認識させてくれたのかもしれない。

これからの時代に必要なのは、何を如何に組み合わせ、どんなアイディアを生み出すか、という部分だけではなく、そこから生じた突飛なアイディアを、「気持ち悪い」と一蹴することなく、少なくとも一度はそれを受け止め、そして咀嚼することではないだろうか。

そう、「ちゅ、多様性。」。
なんてね。

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