藤のトンネル

「目からウロコ」が落ちるインタビュー集「右翼テロ」「超国家主義」のレッテルを剥ぎ取る福岡が生んだ気宇壮大な結社「玄洋社」の本当の姿とは―②

テロのイメージ

─少し話は遡りますが、玄洋社が関わった有名な事件としては、一八八九年(明治二十二年)の大隈重信爆殺未遂事件がありますね。 石瀧 不平等条約の改正をやろうとした大隈重信外務大臣に対するテロで、あの事件は単なる「テロのためのテロ」ではありませんでした。つまり、「これしか手段がない」と追いつめられた状態でした。  不平等条約を改正するのはいいことですが、日本が近代的な法体制を整えない限り、それは大変困難なことでした。外国から見れば、自国民が日本の法律で裁かれることは恐ろしいことです。今でもイスラムの掟で鞭打ちになるとなれば、アメリカやヨーロッパが大騒ぎになるのと同じです。大隈重信は秘密裏に交渉をしていたのですが、イギリスの新聞に漏れて、日本の新聞が報道しました。その交渉内容は日本で外国人を裁判する時には、大審院(現在の最高裁)では判事に外国人を任用するというものでした。これにはボアソナードというフランス人法学者も「国家の独立を侵すことになる」と反対しました。  仮に外国人の犯罪に対しては公平に動くとしても、その他の国家の重要な事項についても監視されているのと同じだからです。国民も総反対で、大隈は内閣の中でも孤立していました。しかし、大隈は決して自説を曲げようとはしませんでした。そこで最後の手段として、大隈に爆弾を投げたのです。 ─止むに止まれぬ状態だったと。 石瀧 歴史家は「大隈重信案は閣議で葬り去られていた。だから無意味だった」と言います。それは玄洋社が常に上滑りで前のめりの行動が多かったという印象からです。しかし、大隈重信爆殺未遂事件の時、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、その結果を見届けないままで、自身もその場で咽喉を斬って自決しています。その後、大隈重信は事件で右足を失っていますが、「敵ながらあっぱれ」と花を手向けたこともあるそうです。  この事件が右翼のテロの原型になります。その後、玄洋社が実際にテロに加担した事件が一、二件ありますが、テロリストを養成していたという訳ではありません。 ─国内で初めての大きなテロを玄洋社がやってしまったので、それを真似たテロが起きた。そのイメージが強くなっていきますね。 石瀧 その後の国内テロが真似をしているのは確かです。つまり、右翼のテロの特徴は、「自分の命と引き換えに、相手の命を奪う」というものです。亜流をつくったのは確かですが、玄洋社がテロリストを養成していた訳でも、テロを実行する集団でもなかったのですが、潔い来島恒喜の印象が強かったと思います。 ─玄洋社の海外工作センターとも言われた黒龍会の活動はどのように見ますか。 石瀧 中国や韓国の人に会うと必ず黒龍会のことを聞かれます。内田良平の黒龍会、中野正剛の東方会はどちらも玄洋社から派生したものですが、これらは玄洋社と同じものとは言えません。玄洋社とは違うからこそ、別の組織が必要だったのです。それぞれを分けて考える必要があると思います。  黒龍会についてあまり調べていないので、はっきりしたことは言えませんが、内田良平が黒龍会と言ったのは黒龍江(アムール川)からだということです。これを中国の人に言えば驚きます。外国ではBLACK DRAGON SOCIETYですから、地下組織といった印象があるようです。実際はそうではありません。  内田はロシアに対する警戒心が強く、たった一人でロシアに調査に入ったり、ロシア語を習得したりと、とにかく「日本を滅ぼすのはロシアだ」という危機感があったと思います。ですから、防御線と考えたアムール川から名前をとった黒龍会を結成したのでしょう。  ロシアは日露戦争以前に満州まで入ってきて、朝鮮半島にまで手を伸ばしてきていました。日清戦争の後の三国干渉によってロシアは中立な立場であるかのように見せかけて満州を取り上げていました。ロシアが朝鮮にまで来れば、日本は直接ロシアと国境を接することになります。強大国、しかも話を聞く相手ではないロシアですから、シベリアからは何としても南下させないという警戒心があったと思います。  黒龍会の本来の目的は、あくまでもロシアの動向を調査することです。ロシアを嫌っているのなら、ロシア語を勉強するはずがないと思うのが普通の人間の考えですが、内田良平はロシア語を習得し、ロシアに入って調査しています。つまり、それだけ冷静で行動的な人物だったということです。 ─今で言えば、民間型のCIAですね。 石瀧 実際に日本が第二次世界大戦で戦争をするのは、陸軍で言いますと皇道派と統制派があり、皇道派は玄洋社や黒龍会と親和性があるかもしれませんが、戦争を遂行していくのは統制派です。教科書的には二・二六事件が戦争への序曲のように言われますが理屈が合いませんよね。皇道派はわざと危険な場所に配置されます。皇道派は思想的な右翼であって、統制派は東条英機のように国家統制、憲兵政治をしようとした人たちです。そういった意味では玄洋社や黒龍会が侵略思想を持っていたと言ってしまうと違います。  ただ、黒龍会についてはかなり根強い不信感があります。それは内田良平自身が朝鮮総督府と近い関係にあったということもあると思います。玄洋社と黒龍会は分けて考えなければならず、黒龍会には責任を負うべき点もあると思いますが、今のところは研究者の偏見もかなりあります。

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