藤のトンネル

「目からウロコ」が落ちるインタビュー集「右翼テロ」「超国家主義」のレッテルを剥ぎ取る福岡が生んだ気宇壮大な結社「玄洋社」の本当の姿とは―①


              「玄洋社・封印された実像」著者 石瀧豊美氏

福岡が生んだ気宇壮大な結社「玄洋社」。敗戦で超国家主義というレッテルを貼られGHQにより解散させられた。以来、玄洋社に対するイメージはそのままの状態だ。玄洋社研究の第一人者にその真の姿を語ってもらった。(二回に分けて掲載します)


「自由民権運動」の嚆矢的存在


─玄洋社に抱く一般の印象は、「右翼テロ」、「超国家主義」というイメージが強いのですが。

石瀧 現在の歴史家の評価のほとんど、年表や百科事典なども玄洋社は超国家主義ということを前提にしています。それは、GHQの占領政策のなかで、「玄洋社は超国家主義で、結社禁止。解散」となっているからです。元をたどればカナダ人の学者でGHQに加わっていたE・H・ノーマンが玄洋社をそのように規定しているからで、戦後の歴史家はそれを疑わなかったということです。そのような中で私は玄洋社を相対的に見ることをしています。

―相対的とは何と?

石瀧 歴史家の先行研究に対して疑問を持つということです。実は研究のきっかけはごく身近な理由でした。玄洋社の生みの親と言われている高場乱(たかばおさむ)という女性がいますが、彼女の父親は須恵町の出身で、私の祖母も同じ高場一族です。私は二十代半ばで「高場乱小伝」を書き、熊本で出されていた同人誌「暗河(くらごう)」に発表しました。暗河は渡辺京二さんや石牟礼道子さんも書いていたところです。私が最初に書いた原稿でした。

─自分のルーツが玄洋社と関係していて、その玄洋社が否定されているという反発もあったのでしょうか。

石瀧 感情的というより、自分の家に伝わる話との違いを感じていました。「素晴らしい話」ということはありませんが、例えば高場乱についての事実が、新聞や雑誌に書かれているものと違うので、自分で確かめてみようと考えたんです。

 どちらが正しいのか、自分の目で確かめてみようと思いました。ですから、始めから否定するつもりはなく、事実を確かめたかったんです。

 私は大学では物理を学びました。理科系の頭だと言われますが、先行研究の根拠を確かめることをしました。すると、誰かが言い出したことを後の人が鵜呑みにして、自分では確かめずに書いていることが分かりました。私は事実を元にして、根拠を示せることを語っていこうと考えています。

例えば、「玄洋社は明治十四年二月に誕生した」と辞典類には書いてありますが、明治十三年十二月の福岡の新聞に「玄洋社演説会」という記事があります。調べて見ると、明治十三年五月に玄洋社は結成届けを警察に出しています。その時点ですでに主体は出来ていた訳ですから、本当に結成されたのはそれ以前で、調べるうちに明治十二年十二月ではないかということが分かりました。これは今後、日記など具体的なものが出てきて確定するもので、今のところは仮説ですが、少なくとも通説は間違っていたということです。

─GHQが刷り込んだ歴史観に反証するとすれば、玄洋社とはどういったものですか。

石瀧 三十年前に西日本新聞社から出した本ではサブタイトルを「もうひとつの自由民権」としています。玄洋社は自由民権運動からスタートしていますが、その頃、自由民権運動の研究者はそれを除外していました。戦後の自由民権運動の研究者は「日本国憲法はアメリカから押し付けられたもの」という批判に対して、「日本の伝統の中にあるもの」と証明しようとして、自由民権運動のなかの憲法草案を持ち出してきます。ところが、日本国憲法の源流としての自由民権運動という立場だと、一方で右翼、侵略主義というレッテルを貼り付けている玄洋社では都合が悪くなります。だから、玄洋社は消されてしまいます。

─自由民権運動の研究者にとって玄洋社の存在は都合が悪いから消されてしまっていると。

石瀧 しかし、当時の新聞や雑誌の評価を引用すると、「土佐の立志社か福岡の向陽社(玄洋社の前身)か」と並び称されています。このような大きな流れを持っていた玄洋社を自由民権運動から除外するということは、自由民権運動の片面しか見ていないということになります。

─一般には土佐の立志社が自由民権運動の嚆矢で、玄洋社はどこにも出てきませんね。

石瀧 理論的に言えば、土佐の立志社は政友会になり、今の自由民主党に繋がっています(立志社→自由党→憲政党→政友会→自由党→自民党)。それを左翼の学者が自分たちの源流というのもおかしなことです。

 もう一つの個人的な立場は、母方の継祖母が熊本県立済々黌高等学校の創立者で、かつ頭山満とも親交のあった佐々友房と親戚関係で、子どもの頃から佐々家が身近な存在でした。父方の祖母は中野正剛と親戚関係で、玄洋社からはどちらにしても逃れられない、宿命的なものを感じます。ただ、私は一方で水平社や部落解放運動も調べています。一般的に右翼のことを研究していれば右翼、左翼研究なら左翼とされますから、「どちらなのか」という見方をされることもありますが、私はそういったこととは関係なく、歴史のなかに埋もれた事実を掘り起こし、不当に忘れられた人物に光を当て、間違った事実を正そうという意図が根本にあります。


歴史の必然性


─玄洋社の背景は明治維新に乗り遅れた旧福岡藩士によって産声をあげたという印象もありますが。

石瀧 一般的にそのように言われますが、明治維新に乗り遅れたという表現は少し違うと思います。玄洋社は利権とは無縁の生き方をした西郷隆盛に共感している人たちで、明治維新の波に乗り遅れて、分け前をもらい損ねたのではないからです。また、玄洋社は福岡にしか誕生できないものでした。

 根拠を挙げると印象論的にならざるをえませんが、ひとつは地理的な条件で、福岡は古代から国境を外国と接する最前線であったことです。防人が派遣され、あるいは朝鮮、百済の亡命貴族が城を築くという、海の向こうからの影響を受けてきた地域です。海を挟んだ大陸の影響を敏感に感じてきたのです。また、福岡藩は江戸時代、佐賀藩と交代で長崎警備を担当しています。これには遠く離れたヨーロッパの動向をいち早く掴む必要があります。朝鮮通信使が福岡を経由して江戸へ向かうということもあり、福岡の人たちは侍の末端に至るまで、朝鮮や中国、ヨーロッパについての知識を持っていました。ですから、幕末期に撮られた侍の写真が結構残っていたりします。私の曾祖父の写真もありますが、こういったものは福岡が長崎と繋がっていたからあるものだと思います。

 もうひとつは慶応元年の時点で、福岡は京都と並ぶ勤王運動の中心地だったことです。三条実美ら五人の公家を太宰府に迎え入れるなどしていて、中岡慎太郎、坂本龍馬や西郷隆盛も来ています。長州は幕府と戦争をすることになりますが、その長州から五卿を受け入れたことで太宰府に勤王家が集結し、それにより福岡が長州の二の舞になるのではないかという恐れがありました。そこで、五人の公家をめぐって尊王攘夷派と佐幕派の争いが激しくなります。

結果的に薩摩、長州と筑前福岡の勤王派は同盟を結んでいましたが(薩・長・筑の連合)、筑前が脱落し、勤王党は壊滅します。薩摩なら西郷隆盛が藩から処分を受けても、島流しで命は奪われていません。福岡も命を奪わずに島流しにでもしていれば、二年後に徳川幕府が崩壊した後、蘇ることが出来たと思います。福岡では七人が切腹、十四人が死刑、十四人が島流し、他に獄死した人もいて、根絶やしにされました。明治維新が起こった時に生き残っていた福岡の勤王家は若い人ばかりで、西郷隆盛や高杉晋作などと親しく肩を並べていた人たちがいなかったことは不運でした。

 西南戦争では勤王の志士たちの子どもたちが西郷軍に所属して戦いました。普通、西南戦争と言えば、鹿児島、熊本、大分、宮崎になり、福岡で西南戦争が戦われたことはあまり知られていません。西郷軍に呼応しようと明治十年三月二十八日に福岡士族が挙兵し(福岡の変)、福岡城の官軍を襲撃しています。この時に戦死、獄死、死刑で百名程亡くなっていています。捕まった一人には鳩山兄弟の曾祖父もいて、歴史は繋がっていると感じます。

─鳩山家は福岡藩とも関係があったんですか。

石瀧 鳩山一郎の奥さんのお父さんである寺田栄が福岡の士族反乱に参加して、懲役刑を受けるのですが、獄中から出てから、司法試験を受けて裁判官になります。そして、衆議院書記官長にまで出世して娘と鳩山家に縁が出来ます。私もまさかと思い、十四年前に鳩山家に問い合わせたら、調べてくれて事実を確認しました。

 その時捕まった数百人のなかで五人が死刑になりましたが、そのうち二人は父親が勤王の志士として切腹しています(加藤堅武の父・司書、武部小四郎の父・建部武彦)。まさに第二世代だったということです。この人たちは「今の明治政府は、父親たちが命を落とした明治維新が目指したものと違う。西郷さんが正しい」という立場だったんですね。始めから反政府で西郷隆盛にシンパシーを感じるというグループだったと思います。


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