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個人主義アメリカを実感する仕事場

日本とアメリカを比較するという文脈の中でよく言われるのが、「集団主義 vs 個人主義」という対比だと思います。日本は集団主義なのに対してアメリカは個人主義、とよく言われますが、実際のところどうなのか、について書いていきたいと思います。

そもそもよく言われる「集団主義」「個人主義」の文脈って、どれくらい周りに気を使うかとか、周りと協力しようとするか、みたいな部分が多い気がします。日本人は周りに合わせる、アメリカ人は好きにやる、みたいな。コロナ禍のマスク着用がその良い例で、実際アメリカでは、マスクしない人も結構居ました(これに関しては政治的な問題にもなってしまったのでまた少し違う話ではあったりするのですが、、長くなるのでここでは割愛します)

ただ、個人的に見てて思うのがそういった個人レベルでの周りにどう合わせるか、って結構人によるんですよね。
私の周りでも、めっちゃ周りに気を遣って、合わせてやる人たちもいます。一緒に働く同僚のうちの何人かは、すごく周りを見ていて、いつも見習いたいなって思っています。もちろん、これは個人差があるので、人によっては好き放題やったり、ミーティングも好きなことを言って時間を取る人はいますが、これはアメリカ関係なくどこでも一緒なのではないでしょうか。

もちろん、ミーティング中にアメリカを感じる場面というのは多々あるのですが(自由度は圧倒的だと思う)、その中でも個人差は感じるということです。

じゃあ私がアメリカの個人主義を感じるのはどういう場面か、というと個人の差ではなく、そもそも組織がどう動くか、の違いだと思います。

私が今の仕事に就くことが決まって、前任の人から引き継ぎをされた時に言われたことがありました。
「壁に何かかけたり、壁のものを動かすときはその部署に申請してやってもらってね」
最初言われたときはなんのことを言われているのかよくわかりませんでした。私は大学のライティングセンターの運営の仕事をしています。ライティングセンターは大学の図書館の中にあるのですが、そこの壁にかかっているものは触ってはいけないというのです。掛けてあるものは私たちが用意したものなのに、です。

それはどういうことか、というと、大学内の施設管理の部署が、労働組合の立ち合いのもと行う仕事には、私たちは手を出してはいけないということです。

最初はよくわからなかったこのシステムですが、ありとあらゆる場面で遭遇するようになりました。

例えば今年、私は大学で働く教授・スタッフのオフィスのドアに、どの教授・スタッフがどの言語を話せるか見えるようなサインをつけよう、と動いていました(まだ実現していないので正確には、動いています、、)
その時、資金面の相談に乗ってくれていた人に、印刷代だけでなく、その印刷したものをオフィスのドアに取り付ける人の労働代も計算しないといけないよ、と言われました。だってそれを専門に、うまくできる人がいるのだから、私はやらないよ、と。

それを言われた時に、以前の壁の話とつながり、なるほどと納得しました。
私の職場では(そしておそらくアメリカの多くの職場では)それぞれが行うタスク・職務がとてもはっきりしていて、それ以外は、そのためにお給料をもらってるわけではないからやらない、とみんな言います。上記のような施設管理系のタスクだけでなく、どんなタスクにおいても、です。

掃除等もこれに当てはまり、自分のオフィスを自分で掃除したらトラブルになったという話まで聞きました。掃除担当の人がいるのだから、そうでない人が掃除したら、その人たちから仕事を奪うことになるというのが理由みたいです。

そしてこの考え方、もっともっと前、子供の頃から植え付けられているのだなと思います。
アメリカの小学校では、掃除の時間はなく、お昼も親が持たせてくれたものを食べるか、カフェテリアで買うかの2択です。それらのプロセスに子供たち自身が関与することはありません。掃除は掃除をするためのスタッフがやるもの、お昼ご飯の配膳はその担当のスタッフがやるもの、ときっちり区別されています。

そんなところが、アメリカの合理的な、かつ個人主義的な特徴の一つだなと思います。

日本だったらちょっとした掃除や雑用は自分たちでやろう、とか職場で年末の大掃除、とか聞きますが、そんなことはアメリカでは絶対にありません。
アメリカで働き始めて2年目、いまだにびっくりすることもありつつ、だから個人主義って言われるのか、なんて納得しつつ、日々生きています。

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