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無責任な消費

雪降りましたね。降り始めたら喜ぶくせに、電車が遅れ始めたり靴が濡れたりすると、雪うざいなと思う。今日雨が降っていたのを見て、まぁ雨でいっか、と思った。

最近(と言ってもここ数日)、横浜から千葉の方に向かう電車に乗っている。馬鹿みたいに混んでいる。昔は青い電車かっこいい〜〜とか思っていたのに、今では特に何も思わなくなった。

さて、そんな電車の中で出会った人に関するお話。

乗り込んだ電車には空席は見当たらず、しょうがないからつり革に捕まっていたときのこと。ひとしきり本を読むのに飽きた時、ふと目の前にいる座っている子に目をやった。

その子は座りながら絵を書いていて、よく見ると銃の絵を書いていた。ただの銃ではなく、銃口から一輪の花が咲いている銃。銃は鉛筆と消しゴムを使って、リアルにかかれていた。花はピンタレストで花を調べながら書いていて、多分バラだったと記憶している。電車の席に座って書いているにしてはクールすぎる絵で、スマホを見ているふりをしながらチラチラ絵をみてしまった。

書いている子は、おそらくアフリカ系アメリカ人っぽくて、髪の毛はドレッドで、ストリートっぽい洋服を身に纏っていた。

それまで視界に入ってきた情報を見て、僕は「絵に意味や文脈を感じてしまうな」とほぼ反射的に思った。同時に、#BlackLivesMatterのことを思い出したり、もっと遡って公民権法が生まれる前のことまでを一瞬で色々考えた。
でも、一通りの反射思考を終えた後、気付いた。勝手にバックグラウンドや文脈を想像して勝手に意味を作って消費しているだけか、と。目に見えている情報だけで判断して、自分の想像の範疇でショートショートを作った。本当にそうなのかなんて本人以外は知り得ないのに。

同じようなことを過去にも感じたことがある。2年前の年始に「世界は僕らに気づかない」を見終わった後にも、同じような安全圏からの消費で大きな問いにぶつかった。アジア系のハーフで片親でトランスジェンダーの高校生が、悩みながらも愛を見つける話。
この場合、すでにストーリーは作られていてそれを見ただけだけど、見終わった後に「いい映画」だと思った。(感想長くなるから端折る)
でもよくよく家に考えながら考えていると、別の感想が出てきた。これをいい映画だと思うということは、安全圏から彼らの抱えている痛みを元にしたストーリーを消費したということで、それはもしかしたらすごく暴力的な行動なのではないか、という感想。

誰かが作ったストーリーなのかそうではないのかという面での違いはあるが、概ね自分の中では同じような問題意識である。
安全な場所から傍観者としてする消費に意味はあるのか。傍観者ではなくなろうとして、少しでも当事者のそばにいようとして色々やってはみるものの、結局「当事者ではない人」というラベルを剥がすことはできないのではないか。など。

トピックが痛みが顕著な領域なだけで、どんな領域にも痛みや苦労等のネガティブな感情が忍んでいると思っている。あのドラマや漫画は面白くなかったよねという批評はしてしまうものの、そこには見えない制作サイドや編集サイドの苦労があって、とか思うと、ぐるぐるしてしまう。

ぐるぐるした結果、毎回傍観者であり当事者ではないということと、脳は止まらないことを事実として受け止め、その上で最大限のリスペクトを払って不用意に人を傷つけないように消費をしようと言う結論に至る。

だけど、きっと同じことはまた思うんだろう。そのたびに、これって本当にいいのか。。と思うんだと思う、そういう人間なので。だけど、そのプロセスがいちばん大事なんだろうなとも思っている。

最近文章を書く時間がなくなってきた気がする。定期的に書く。サムネは最近毎日会う猫です。

前です。


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