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暴力と虚構の時代

大層なタイトルを思いついてしまった。評論家か学者のどっちかなのか。どっちでもない。大学は7年も出れなかった。どっちでもないけど、思いついてしまったので書く。パンピーの言葉。

ここまで寒くなってくると、今年一年をどうしても振り返ってしまう。秋になると葉っぱが紅葉するように、冬になると人間は追憶と回顧をしてしまう。大昔の人も今年はいい年だったねとかいうのだろうか。どうでもいいか。

コロナがもう懐かしく感じるようになった。今でも最前線で戦っている人はいると思うが、尾身さんも退任したし、歴史の1ページが終わったと言ってもいいのではないかと思う。
この数年で「鬱屈」という言葉で形容できるシーンが増えた気がするけれども、フェスも声出しOKになってたくさんのイベントが戻ってきた今年はそんなシーンも減った。「溌剌」という言葉で形容できるシーンが増えた気がする。
でも、過去に一度充満した鬱屈とした空気はまだ残っていて、そんな空気は人が持っている暴力性に今も拍車をかけていると思っている。

暴露系が盛り上がったのも、論破系が盛り上がったのもこの数年。具体的なコンテンツを言ってしまうと好きな人がいるかも、、と思うけど、あれもこれもとたくさん思いつく。
正確にいうと、そのずっと前からそんなコンテンツ自体はこの世に存在していたが、SNSとかいう人類が使うには早すぎたツールのせいで、誰でも簡単に誰かに暴力を振るうことができるようになってしまったんだなと思う。
と同時に、誰でも簡単に、誰かが暴力を振るわれているシーンを遠くから消費できるようになったんだなと思う。
僕はHIPHOPが好きである。が、この1-2年でHIPHOPが流行った理由も、きっとこの大きな流れにあるのではないかと思う。盛り上がりは嬉しい反面少し悲しい気持ちにもなる。MCバトルとかね。そんな時代だからこそ、GOMESSとかRudeαみたいなバトルにも出てくれるピースフルなラッパーとか、ディスらないで自分のやばさを語るSKJとか大好きなんだけどね。リスペクトのあるディスは好きだったけど、数字のためのディスは好きじゃない。

人に暴力を振ることは良くないこと、みたいなことは正義ヅラおじさんをしたいわけではない。もちろん振るってはいけないと思うが、そりゃ生きていればイライラすることもあるだろうし、恨みも持つだろうし、振るう人には振るう人の事情もあるのかもしれないし。もちろん暴力はいけないことだと思っているし養護することもないけど、ゼロヒャクで区切れるほど人は単純ではないよなとも思うし、誰しもがそんな負の感情を持って生きているはず。

そんな誰しもが持つ負の感情を消費する手段の1つに、「誰かが誰かに暴力を振るわれているシーンを見る」というものが生まれてしまった。生まれてしまったは違うか、もともとあったと手段がより選ばれるようになった、位の感覚。

リフレッシュに旅行にいくよりも、関係のない友達と話して愚痴をいうよりも、もっと簡単で手軽に負の感情を昇華する方法。それが、「遠いところから誰かが誰かに暴力を振るわれているシーンを見る」。移動に制限が生まれたコロナは、きっとそれに拍車をかけたんだろうと思う。

数年で人権とかなおざりにされてしまっていた概念が、ようやく一般化してきた。それは人々が人権意識等を持ち始めたと同時に、「言っては/やってはいけないライン」という、「存在しているけどかなり曖昧な一発アウトな線引」が生まれてたということでもあると思う。それも鬱屈を拍車をかけて、そして内面化させている要因でもあるんだろうなとも思う。表立っては言わないけど、本当に仲良い友達には「ぶっちゃけ〜〜」って話すことあるでしょ。

shortsとかみてれば自分の意思とは関係ないところで動画は流れてくるから、そんなクソみたいな流れてきて見てしまうこともたまにある。その度に自分ダセ〜〜、って思う。
SNSにあがっているものなんて虚構で、虚構を見ているに過ぎないのに、その虚構で負を解消する。愚かだなと思う。自戒でしかないけど。虚構は言葉が大きいけど、結構本当に虚構だよなと思っている。現実には実在する、でも本当は自分とは遠い出来事なのに近いと錯覚する。実在する虚構。

それっぽく文字を並べているけど、きっと色んな人が気づいていて、そんなグチャッとしたグラデーションの感情が更に鬱屈を加速させているんだろうなと思う。でもそれは同時に、もっとヘルシーにポジティブな行動で、その鬱屈さを解消できる機会でもある。

リチャード・ドーキンスは、人間は遺伝子の乗り物で生存機械でしかないと言い切った。かなりドライだけど、突き詰めちゃうときっとそういうことなんだろうなと思う。同時に、自己複製子と乗り物としての人間は別のキャストであって同等で補完性のある関係とも言ってる。人の不幸で自分の負の感情を昇華する生き物と補完関係なんて、きっと遺伝子も補完関係を結びたくないだろうなと思う。

ドーキンスの言うことを信じるとするなら、乗り物としての人間には本来的には生きている意味なんてないのかもしれない。正確にいうと、遺伝子とミームを残す以外に、本来的な目的はないんだろう。深沢七郎も、ただわけもなく生きるのが人間と言っている。(人間滅亡的人生案内、めっちゃおもしろいからおすすめ)
でも、流石に自我芽生えちゃってるし、別に遺伝子残すために生きてないしな〜〜と思う。

きっとまだ長い人生の道のりでは色んな人に会って色々なことをして色々な感情に出会うんだろう。とすれば、鬱屈とした感情と付き合いが生まれる可能性が高い。
だから、なるべくポジティブに鬱屈な感情と向き合いたい。というか、ネガティブをポジティブに転換できるプロセスを持ち合わせて、人生を歩きたいなと思う。

まじでなんどでもいうけど、暴力はダメだし、やってはいけないことはだめ。人権みたいな当たり前なものは当たり前に意識するべき。自分の鬱屈さを昇華するために人を傷つけてはいけない。
だけど、それは鬱屈とした負の感情とずっと寄り添って生きないといけない、と同義ではない。

鬱屈な感情を感じたら、誰も傷つけずなるべくポジティブに昇華したい。
SNSは節度を持って接したい。
どうしても他人に恨みがあってそれをぶつけたければ、ナイフを言葉で包んで優しくちょっとだけ刺したい。ちゃんとケアまでする覚悟がある相手に限るけど。
隣に鬱屈な感情を持ち合わせている人がいれば、半分くらいは一緒に鬱屈としてあげて、上るところまで一緒にいてあげたい。
よそはよそ、だけれども、隣の隣までは愛したい。
まだまだできていないけど、そんな人間であれればなと思う。

途中からまとまらなくなってしまったけれども、そんなことを考えている。
ピースに生きていこうぜ〜〜〜〜〜。

前です。




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