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7-11.交渉開始

交渉開始

第2回目の接触、ここからは交渉となりますが、翌日早朝7時からおこなわれました。今度は中島と同じ与力の香山栄左衛門、通訳は立石得十郎が加わりました。香山は自らの役職を「奉行」(Governor)だと偽って、交渉をします。昨日の中島も香山も、それぞれが成りすまして応対するという奉行との事前の打ち合わせができていたのでしょう。ペリー側は、昨日よりも高位の2名(1人は艦長)と副官の3名が出てきて、交渉が行われます。香山は、「異国船の応接は長崎にておこなう決まりであるから、長崎へ回航すべし」と言いますが、アメリカ側には「我々が来航することは、一年も前に帰国政府に通告済みである。長崎へは行かない」と殺気だって反論されます。面談早々に強烈な一撃を見舞われたわけです。

交渉の内容は、「日本の国法により、受け取れない。たとえ、それを受理しても、回答は長崎でだされる」との日本の言い分に対し、ペリー側は「ここで受け取れないなら、十分な武力をもって上陸し、どんな結果になろうとも国書を渡す。」との回答です。また、測量をおこなっているボートに対しても、香山は「日本の国法に反している」と抗議しますが、これも「アメリカの国法はそれを命じている」との返答です。「砲艦外交」「恫喝外交」とよばれる所以でしょう。香山はなす術もありませんでした。結局、香山は「江戸へ確認しなければならい。返事が来るのに4日かかるから、それまで待ってほしい」と言うのが精一杯でした。それに対し、ペリー側は3日間だけ待つと回答しました。ペリー側は、4隻の戦艦の威容で脅すだけでなく、「我々はカリフォルニアから来た。日本までは20日で来られる」と嘘をいい、援軍はすぐにくるということを匂わせることを忘れませんでした。ペリー遠征記には、日本が沿岸で防備体制を築く様子が記録されています。

野次馬への対応

また、幕府はペリー艦隊の動静だけでなく、黒船を一目見ようと押しかけた多くの人びとへの対応にも迫られました。いわゆる「野次馬」です。人びとは「黒船」の突然の出現にパニックに陥ったのでしょうか。「遠征記」には、艦隊の様子など気にもとめずに、日常の取引らしいことを活発に行なっている多くの日本の舟のことを記していますが、江戸市中では、大騒ぎになっていたかもしれません。多くの狂歌が残されています。最も有名なのが、「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜もねむれず」だと思いますが、これは明治になってからの創作という可能性もあるといいます(出所:「江戸の海外情報ネットワーク/岩下哲典」P120)。

香山の悔し涙

香山は、ペリー艦隊との交渉後の7月11日、浦賀在勤奉行戸田の命令で江戸の井戸(浦賀の江戸在勤奉行)のもとへ向かいました。香山は交渉の様子と、なんとしても長崎へ回航させて、穏便に取り計らうつもりだという戸田の方針を井戸へ話しました。ところが、井戸の返答は香山にとって意外なものでした。「アメリカから使者が来ることは、以前にオランダを通して通達があり、承知している。長崎へ行けというのは、もってのほかである」(「幕末外交と開国/加藤祐三」P48)と言うのです。香山は自らの日記に、予告情報を知らせてくれなかったことに対し、

「実に浅間敷あさましき事共と、於私ひそかにに落涙数刻に及び候」

と記しています(出所:「明治維新史/石井寛治」P 28)。よほど悔しかったのでしょう。

続く



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