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わたくしの両親は、いわゆる「戦中派」でした。両親が生まれ育ったかつてのこの国の歩みを、…

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わたくしの両親は、いわゆる「戦中派」でした。両親が生まれ育ったかつてのこの国の歩みを、15世紀から辿ってみます。「日本史」でも「世界史」でもありません。近年の言葉でいえば「グローバルヒストリー」が中心の独り言、余談を交えて書き連ねます。

マガジン

  • 7.ペリー艦隊最初の来航

    日本遠征艦隊の司令長官に任命されたペリーがいいよいよ日本にやってきます。幕府の官僚たちは、どう対応したのでしょうか?この頃の幕府は、評判が悪い。その1年前から来航情報は知られていたにもかかわらず、無為無策で過ごしたといわれるからです。それは事実なのでしょうか?それをみていきます。

  • 余話・雑感などなど

    日本をとりまく歴史の余話や、時折り考えてしまう諸々のことを書き連ねます。「教科書が教えない歴史」という本がありますが、言ってみればそんなジャンルかもしれません。

  • 6.太平洋を隔てた隣人

    1853年7月と翌年2月に2回に渡り日本にやってきたアメリカ艦隊。そのミッションは、日本を「開国」させることでした。当時のアメリカは一体どんな国だったのでしょうか。それをみていきます。

  • 5.予兆

    東シナ海における2大プレーヤーの一国だった清が、イギリスの侵食を受けはじめ、ついにはアヘン戦争が起こります。その結末は幕府を震え上がらせました。一方、アメリカ船は日本へ頻繁に姿を現すようになります。清との貿易航路の中継点として、日本列島がクローズアップされ、アメリカは日本を「開国」させることを決意します。

  • 4.それから

    日本と清という2大プレーヤーが、鎮めていた海が、再び西洋によって荒れるようになります。最初はオホーツク海のロシア、そして太平洋からイギリス、アメリカと。18世紀からペリーが日本へ向けて出航する艦隊の司令長官に任命されるまでの物語です。

最近の記事

7-13.動きだす阿部政権

ペリーが去った10日後、1853年7月37日には12代将軍家慶が逝去。次の将軍家定の就任は4ヶ月後の11月となりますが、この4ヶ月間で、阿部はさまざまな方策を打ち出していきます。 方策その1:国書を回覧し、各層から広く意見を求めた(7月) 幕府が、政治にたいして意見を求めるなど、前代未聞のことでしたが、これが最も早い方策でした。「通商を許可すれば国法がなりたたず、許可しないなら防御の措置が必要になる。忌諱にふれてもよいから、遠慮なく意見を述べよ」というもので、提出された意

    • 7-12.国書受け取り

      国書受取りを伝える 回答期限当日(7月12日)。「遠征記」によると、朝9時半頃3隻の船がやってきたとあります。前回同様、香山栄左衛門、堀達之助、立石得十郎の3名がサスケハナに乗船しました。ペリーは未だ姿を現しません。前回同様の3名が応対にでました。ここで、香山は「それ相応の高官が親書を受け取る、場所は海岸で14日朝」と回答します。ただし、「その高官は国書を受け取るのみで、交渉はしない」と付け加えました。ペリー側も「挨拶、並びに国書を渡すことができればよく、その場での交渉は不

      • 7-11.交渉開始

        交渉開始 第2回目の接触、ここからは交渉となりますが、翌日早朝7時からおこなわれました。今度は中島と同じ与力の香山栄左衛門、通訳は立石得十郎が加わりました。香山は自らの役職を「奉行」(Governor)だと偽って、交渉をします。昨日の中島も香山も、それぞれが成りすまして応対するという奉行との事前の打ち合わせができていたのでしょう。ペリー側は、昨日よりも高位の2名(1人は艦長)と副官の3名が出てきて、交渉が行われます。香山は、「異国船の応接は長崎にておこなう決まりであるから、

        • 7-10.噂が現実に

          浦賀 神奈川県横須賀市の東部に位置する浦賀。ここは江戸湾の入り口にあたり、江戸時代には多くの廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねていた場所です。幕府は、江戸湾に入る船の臨検を行う場所として、1720年からここに浦賀奉行所を構えていました。そこには、トップである奉行2名(1名は在浦賀、もう1名は江戸)、その下に組頭が2名、与力が28人、その下の同心が百人でした。1847年より、江戸湾防備を命じられた藩は、三浦半島側に川越藩、彦根藩、対岸の房総半島は会津藩、忍藩です。浦賀奉行所は幕府直

        7-13.動きだす阿部政権

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        • 7.ペリー艦隊最初の来航
          13本
        • 余話・雑感などなど
          10本
        • 6.太平洋を隔てた隣人
          7本
        • 5.予兆
          12本
        • 4.それから
          12本
        • 3.出会いの結末
          9本

        記事

          7-9.余話として(黒田斉溥、勘定奉行職)

          黒田の夢 「7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩」で阿部正弘に意見書を提出した福岡藩主黒田斉溥(のちに改名して「長溥」)は、「蘭癖」と称された藩主でした。盛んに西洋技術を取り入れ、医学学校の創設や、藩内で蒸気機関の作成までしたほどです。ペリー来航前後は40代前半、彼は明治20年(1887年)まで存命だったので、かなり長命でした。彼は、長崎に海軍伝習所が開かれてオランダ人との交流が盛んになると、オランダの蒸気軍艦にも招かれて「バタヴィアやオランダまでも言ってみたい」と艦長に告げ

          7-9.余話として(黒田斉溥、勘定奉行職)

          7-8.来航前夜

          広がる噂 阿部はこのあと、黒田の意見書どおり、徳川御三家(水戸、尾張、紀伊)、江戸湾防備の4藩、ならびに浦賀奉行へ情報を伝えています。ただし、情報の漏洩による世情不安を巻き起こすことを警戒し,浦賀奉行へは、「与力へは通達無用」とまでしていました。 与力とは現場にあたる支配下の役人です。しかし、薩摩の島津をはじめ、受け取った藩主たちはそれぞれのつながりの強い藩主たちへその情報を伝えていきました。そうなれば、秘匿されたはずの情報が外部に漏れていくことは当然のこと。瞬く間に噂とし

          7-8.来航前夜

          7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩

          幕臣だった田辺太一の嘆き さて、現在においても、この時期の幕府(阿部政権)に対して投げかけられる問いがあります。それは 「なぜ、幕府はペリー来航予告情報を知りながら、有効な対外政策を立案・遂行することができなかったのか」というものです。 来航予告情報が伝えられてから、ペリーが最初に現れるまでの約1年間、幕府はただ無為無策状態であったと認識されているため、今でもこの頃の幕府の評価は低いままです(のように感じている)。これは、同時代人で幕臣でもあった田辺太一が著した「幕末外

          7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩

          7-6.オランダの苦悩と新たな対日方針その2

          やや長くなります。 ヤン・ドンケル・クルチウスの赴任 本国から与えられた対日方針を完遂させるため、東インド総督は1851年11月に東インド最高軍法会議裁判官に就任したばかりの法官ヤン・ドンケル・クルチウスに白羽の矢を立て、翌1852年4月、彼にその辞令が下されました。条約締結のための全権が与えられるため、その資格と能力を備えた人選でした。(彼が最後の「商館長」になりました) その対日方針を携えてクルチウスが来日したのは、ペリーが日本遠征の司令官として正式に任命された18

          7-6.オランダの苦悩と新たな対日方針その2

          7-5.オランダの苦悩と新たな対日方針

          アメリカ艦隊の日本派遣がオランダへ与えた衝撃 すこし時間をさかのぼり、かつペリー艦隊の動静からは離れます。 アメリカ艦隊日本派遣情報を日本に伝えてほしいというアメリカ政府の要請は、バタヴィアの東インド政庁に大きな衝撃を与えました。1852年1月の本国植民大臣へ宛てた東インド総督の書簡が残されています。やや長いですが、全文を挙げます。 「(前略)ここ数日間私は何度も日本問題に対決させられました。ローゼ氏(筆者註オランダ商館長)の辞任が認められたので、新しい出島商館長の任

          7-5.オランダの苦悩と新たな対日方針

          7-4.出航

          地球3/4周の大遠征 ペリーの出航は1852年11月24日。アメリカ東部のノーフォーク港を蒸気軍艦ミシシッピ1隻のみで出航しました。予定した12隻の編成は、蒸気機関の故障、整備遅れなどが明らかになり、完全な陣容が揃うのを待っていては数ヶ月後になることから、とにかく出航をすることを優先させたのです。残りは、広東、上海に停泊しているものと、追いかけてくる艦船を待つことにしました。航路は太平洋横断ではなく、大西洋をわたり、アフリカ大陸を南下してインド洋へ入り、シンガポールを抜けて

          7-4.出航

          7-3.日本へ向けた準備

          大統領からの重大命令 フィルモア大統領はペリーに対して重大な命令を出していました。それは「発砲厳禁」という命令です。「艦船及び乗員を保護するための自衛、および提督自身もしくは乗員に加えられる暴力への報復以外は、軍事力に訴えてはならない」(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P71、以降「幕末外交」)。という命令を出していたのです。アメリカでは大統領に宣戦布告の権限がなく、それは議会にのみありました。議会内での与党ホイッグ党(のちの共和党)は少数派であり、多数派を占める民主党も

          7-3.日本へ向けた準備

          170年前の吉田松陰の企て

          ペリーの「遠征記」に書かれた吉田松陰と金子重輔 吉田松陰と金子重輔がアメリカへ密航を企てたことはよく知られている。1854年4月25日(ただし、具体の日付は諸説あり)のことですから、ちょうど170年前のことで、ペリーが条約の調印を済ませ、江戸を離れて下田に停泊していた時のことでした。 乗り込んだ船は旗艦ポーハタン。その前にミシシッピに乗り込み、ポーハタンへ行けと教えてもらったからです。松陰らの願いはペリーにまで届けられ、ペリーは日本政府の許可がなければアメリカへ連れて行く

          170年前の吉田松陰の企て

          7-2.余話として(ヨハン・ヨゼフ・ホフマン)

          オランダの貢献 前回、「7-1.ペリーの登場」でも述べましたが、再びシーボルトの名前が出てきました。彼は、当時唯一の日本通として広く名前を知られていました。これからも何度か彼を取り上げていきますが、一八五三年のペリー来航から一八五八年まで(元号でいえば嘉永から安政)の間は、オランダの存在は、きわめて好意的な助言者として日本の歴史に大きくかかわってきます。とはいえ、ほとんど歴史では習うことはありません。追い追いそれを述べていきます。 ヨハン・ヨゼフ・ホフマン さて、シーボ

          7-2.余話として(ヨハン・ヨゼフ・ホフマン)

          7-1.ペリーの登場

          オーリック司令官の解任 「5-13.動き出すアメリカ」の続きになります。 日本派遣艦隊の指令長官オーリック司令官への大統領の指示(1851年5月)は、 「蒸気船による大洋航海が世界を結ぶときがまさにこようとしている」「カリフォルニアとチャイナを結ぶ航路。これが最後に残されたリンクである。わが国の企業家にこの航路を提供する施策を一気呵成にとらねばならない。これは大統領の考えである」(「日本開国/渡辺惣樹」P185) と、非常に明確でした。 「カリフォルニアとチャイナを

          7-1.ペリーの登場

          桜の時期、多くの日本人が気もそぞろになる。「いつ咲くのか」と、心待ちにし、咲けば咲いたで「いつ散ってしまうのか」と・・・。 「世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」在原業平 折口信夫と柳田国男の哀しみ 柳田国雄の高弟であった折口信夫(詩人釈迢空の名前でも知られる)は、昭和の初めころから、大学の卒業生が記念に歌を書いてほしいといって、色紙や短冊を差し出すと、華やぎと別れの気分を詠んだ 桜の花ちりぢりにしも わかれ行く 遠きひとり と 君もなりなむ とい

          6-8.向かう先は日本

          日本への艦隊派遣の決定をした頃(1851年5月)のアメリカは、前途になんの不安も感じておらず、バラ色の未来を感じていたはずです。中国への玄関口となるであろうカリフォルニアでは金鉱も発見され、州内の人口が爆発的に増えていた時期です。「日本開国提案書」を作成したアーロン・パーマーは太平洋に大きなビジネスチャンスをみたのです。 「サンフランシスコは太平洋岸の商業の中心となることは疑いない。この町が東部諸州と鉄道で繋がったとき、ここはチャイナ(市場)への出発点となる....鉄道を

          6-8.向かう先は日本