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4-7.新たな恐怖

異国船への警戒(これまで)

日本に戻ります。17世紀後半から、日本と清の支配、統制が及んだ海域は、波のたたない穏やかな状態であったことは前述しました(「4-1.漂流者の運命を分けた海」。幕府は、「遠見番所」の設置を全国の諸藩に命じ、主にはポルトガル船の来航と、潜入してくる宣教師を警戒していました。とはいえ、そのころのポルトガルは、アジアの海において以前のような力を持っていませんでしたので、実際は漂流してくる異国船をどう扱うかという問題でした。オランダ船だけは異国船の中で区別し、それ以外は一切上陸を許さない、上陸させた場合は、収容した小屋を何十にも取り囲み、日本人との接触をさせず、長崎へも陸路ではなく、海路で送るという徹底ぶりでした。

ロシア

ところが、18世紀後半になると日本近海に、漂流船ではない異国船が多く見られるようになってきます。最初は北方からのロシア船でした。17世紀末から清との間で条約を結んだロシアは、クロテンなどの毛皮を清への最重要輸出品としていました。1728年には※ピョートル大帝から北極海経由で中国、インドへの航路発見を命じられたベーリングが、北極海と太平洋を結ぶ海峡を確認します。これが今のベーリング海峡です。そして、クロテンよりも商品価値の高いラッコの毛皮を北米大陸の太平洋海岸から持ち帰りました。こうして、18世紀後半から、ロシアは北米大陸の原住民からラッコの毛皮を獲得し、シベリア経由で清へ輸出する貿易を始めるのです。この貿易を維持するためにシベリア開発を始めたロシアが、食糧供給地として当時は「蝦夷地」と呼ばれた北海道や、日本に注目して交易を望むようになるのです(出所:「幕末の海防戦略/上白石実」P25)。

※ピョートル1世(在位1682〜1725)。ロシアロマノフ王朝の3代目の皇帝で、「大帝」とよばれる。ロシアの王朝の中でそう冠された皇帝は、彼のほかにモスクワ大公国の初代皇帝イヴァン3世のみ。ピョートル1世は、「西欧に憑かれた若き皇帝」(出所:「ロシア・ロマノフ王長の大地/土肥恒之」P97)と記されるように、自らもその一員に加わった250名もの大使節団を、オランダ、ドイツ、イギリスへ派遣した。後進国から抜け出そうとしたためである。

イギリス

また、ロシアに遅れて北米のラッコに注目したのがイギリスとフランスです。イギリスは1776年にバンクーバ島(カナダブリテッシュコロンビア州)で原住民からラッコの毛皮を手に入れ、その毛皮を広東で売って巨利を得ます。それに触発されたフランスは、北太平洋航海に乗り出し、1787年に朝鮮半島南部から日本海に入り、宗谷海峡を通過して太平洋へ抜ける航海をします。イギリスとフランスが目指した貿易は、北米海岸で入手したラッコの毛皮を、清へ輸送しようとするもので、その経路にあたる日本近海に注目が集まり、日本近海で漂流船ではない異国船が目撃されるようになるのです(出所:「幕末/上白石」P25)。幕府の知らぬところで、世界は大きく動いていました。松平定信が老中として、教科書にも記載のある「寛政の改革(1787〜1793」を進めていた頃です。

1791年には、マカオでのラッコの毛皮の売却に失敗したイギリス船「アルゴノート号」が対馬沖に現れ、2週間ほどすれ違う日本船や沿岸に接近して、接触を試みましたが、それは失敗に終わっています。幕府は、その船の正体については不明なままでしたが、これまでの漂流船や、日本人漂流民を送還する船ではないことに気づいていました。そうして、これまでの異国船取扱いの変更を指示します。臨検によって異国船が漂流船と確認された場合には従来どおり保護するものの、漂流船ではないと判断した場合には、上陸させて隔離した上で、対処方法をその都度幕府に問い合わせるようにしたのです。ただし、臨検が拒否された場合には、「大筒や火矢」を用いて船をも人をも打ち砕いてかまなわいとしました(出所:「幕末/上白石」P28)。

幕府は、あらためて海に面した諸藩に沿岸警備の充実を求めるようになります。最初に接触を求めてきたのはロシアでした

ちなみに、明王朝の時代に、皇帝が臣下に下賜したモノの中に大量のクロテンの毛皮がありました。中国東北部の「女真族じょしんぞく」は、その交易で明との間で莫大な利益をあげます。そして、明王朝を倒して清王朝を打ち立てるのですから、「クロテン」が清を作ったと言えなくもありません。クロテンやラッコという可愛らしい動物が、歴史を作ったとも言えると思います。

続く


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