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4-8.ロシア船の来航(ラクスマン)

舞台は蝦夷地

1792年、ロシアからアダム・ラクスマンの乗ったエカテリーナ号が根室沖に姿を現します。この船には10年前に伊勢白子浦(三重県鈴鹿市)から江戸へ向かう途中に遭難、漂流してロシアに流れ着いた※大黒屋光太夫ら3人の日本人が乗っていました。ラクスマンは28歳の陸軍中尉であり、来航の目的は、彼ら日本人漂流民を受け渡すことが主で、通商を求める書簡を渡すことが従でした。通商を求める正式使節ではありません。すでに北の冬、10月のことです。

前述したように、蝦夷地は松前藩領です。松前藩士は、幕府への連絡、指示を仰ぎますが、蝦夷から江戸間のこと、かなりの時間がかかります。松前藩はラクスマンらに根室での越冬を許可します。彼らは、日本人の居住小屋からほど近い場所に営舎を建設してそこで越冬しました。越冬後の翌年、ラクスマンは箱館に入港して陸路松前へ入り、光太夫ら日本人を引き渡します。幕府は異国との交渉は全て長崎にておこなうことを伝え、ラクスマンには長崎入港のための「信牌しんぱい(幕府が発行する入港許可証)」を渡しますが、ラクスマンは長崎へは向かわずにそのまま帰国しました。

ロシアの日本語学校

このロシアからの一行の中には、ロシア人の日本語通訳がいて、彼を介して交渉が行われました。驚くことに、ロシアにはイルクーツク(現イルクーツク州の州都。シベリア管内)に日本語学校が設けられていたのです。1745年に下北半島を出港した多賀丸が遭難、ロシア領内に漂着して助けられ、その乗組員10名を教師とした日本語学校でした(出所:「大黒屋光太夫/山下恒夫」P7)。ロシアは、来るべき日本との貿易に向けての準備を進めていたのです。

※大黒屋光太夫は船頭だった。その船「神昌丸」には光太夫を含め17名がいたが、帰国できたのは3名のみ。しかし、そのうち1名は、根室での越冬中に死亡している。光太夫は、サンクトペテルブルク(当時のロシアの首都)で、女王エカテリーナ2世に謁見している。帰国後には、11代将軍家斉からも聞き取りを受け、のちに幕府から江戸に居宅を与えられ、貴重な海外経験者ということで、多くの蘭学者たちと交際している。彼の生涯を描いた小説に井上靖の「おろしや国酔夢旦」がある。

ちなみに、当時の日本語(やまと言葉)では「ラ行」で始まる言葉はなく、その前に必ず母音をつけて発音していました。だから「『お』ろしや」なのです。今でも辞書に載るラ行の言葉は、漢語と明治後の外来語がほとんどだといいます。

蝦夷地の直轄化(仮想敵への備え)

1796年と続く97年に、イギリスの探検家ブロートンの船が蝦夷地の絵鞆(現室蘭)に現れ、97年には、そのまま津軽海峡を抜けて日本海を南下し、朝鮮半島までを航海しました。このあと、幕府は1799年に蝦夷地の東半分を松前藩から取りあげ、直轄地とします(上地あげちとよばれる)。最初は7年間という期限をきったものでしたが、1802年には期限を撤廃し、永久上知とします。長崎同様に、北の守りを幕府直轄としておこなうためです。この時の第一の仮想敵はロシアでした。対ロシアには松前藩だけでは対応ができないと判断したためです。

蝦夷地の幕府直轄を受けて、1800年に八王子千人同心の組頭だった原胤敦はらたねあつが57名でシラヌカ(現釧路市白糠町)、弟信介が43名でユウフツ(現苫小牧市勇払)へ、蝦夷地の警備と開拓の命をうけて上陸した。結果は悲惨だった。八王子での農耕経験などほとんど役に立たず、厳しい寒さとも戦わなければならかった彼らは、シラヌカでは上陸後4年間で、32名もの死者を出した。ユウフツへの入植者も同様の結果だったという。これらの入植地はのちに解散している(出所:「幕末/上白石」P56〜58)。

続く


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