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7-13.動きだす阿部政権

ペリーが去った10日後、1853年7月37日には12代将軍家慶いえよしが逝去。次の将軍家定の就任は4ヶ月後の11月となりますが、この4ヶ月間で、阿部はさまざまな方策を打ち出していきます。

方策その1:国書を回覧し、各層から広く意見を求めた(7月)

幕府が、政治にたいして意見を求めるなど、前代未聞のことでしたが、これが最も早い方策でした。「通商を許可すれば国法がなりたたず、許可しないなら防御の措置が必要になる。忌諱にふれてもよいから、遠慮なく意見を述べよ」というもので、提出された意見は、記録に残るものだけで719通にもおよび、各藩の藩主から藩士まで、奉行から小普請組の幕臣、さらには渡世人の意見まであったらしい(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P103)。「祖法を守れ」として通商を拒否する、「通商やむなし」とするなど、意見が割れたことはもちろんですが、「開港」を認める中には、「外国との交易を盛んにすべし」とした積極意見、「戦力が整うまで通商をし、その後は通商を中止する」という消極的意見など、議論百出です。

方策その2:大型船の所有・建造の解禁(10月)

これに対する一八四六年の阿部の諮問は拒否されたが、今回は諮問後三週間で決着しました。諸藩に対して大型船のそれを認めたわけです。また、オランダに対し蒸気軍艦一隻、帆船軍艦三隻の発注をすることにしました。

方策その3: 防衛線の後退、並びに台場建設(夏から秋)

これまでの江戸湾の防衛線(観音崎―富津)を大幅に後退させ、品川から築地周辺に移し江戸湾内海の警備を強化すこととし、品川沖に新たに大筒(大砲)台場を11ヶ所建設することを決定しました。そのうち、1〜3番砲台は翌年7月に完成しました(現在、史跡として残されているのが、2番、3番の台場)。1855年にはさらに2ヶ所が完成しますが、残り6ヶ所のうち2ヶ所は途中で工事中止、4ヶ所は着工しませんでした(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P117)。

方策その4:江戸湾防備を新たな藩へ交代、5藩体制

12月に、警備の担当藩を交代させ、これまでの4藩から5藩(熊本・萩・岡山・柳河・鳥取)へと増加させました。

方策その5:江戸市中取締り(1854年初頭から)

黒船見物の野次馬を抑えるのに、相当に苦労したのでしょう。あらためて黒船見物の禁止措置をだしました。品川沖での台場建設という大工事に伴い、東海道は一時通行止めとなったりしました。江戸に住む人びとにとって、浦賀はいわば対岸の火事でしたが、防衛線の後退に伴ってもはや間近なこととなったので、江戸市中は騒然となったようです(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P118)。

現実のショックの効き目

前述したように、阿部は昨年のオランダからの情報受領後におこないたかったことを、現実のショックを契機に一気に成し遂げたと思います。方策その1によって世に出てきたのが、当時無役だった小普請組の勝麟太郎(海舟)です。彼の献策が海防掛目付の目にとまり、勝は世にでる機会を得たのです。勝が31才のときでした。また、これも、阿部の意に沿う人物を探し出し、それを自らの支援グループにいれることを目的にした策だったと思います。

ただし、これにより幕府の権威が弱まったことは否定できません。

中浜万次郎(タイトル画像)

また、この年(1853年)には、土佐藩士だった中浜万次郎が、幕臣に取り立てられました。有名なジョン万次郎です。彼は14歳の時(1841年)に、船が遭難、漂流してアメリカの捕鯨船に救助されました。彼はアメリカマサチューセッツ州の船長自宅のもとで育てられ、英語や測量術などの学校教育を受け、卒業後は捕鯨船乗組員となったのです。命懸けで故国へ帰る決意のもと、1851年2月に琉球へ上陸、その年の8月に念願の土佐へ帰国しました。彼からのアメリカ情報を聞き出しまとめたのが※河田小龍かわだしょうりゅうです。万次郎はその後藩士となり、土佐藩校の教授をしていたが、幕臣に取り立てられることになりました。おそらく当時唯一の英語に熟達した日本在住の日本人だったからです。幕府は、来るべきペリーに備えて、彼を通訳とするつもりでした。

※河田小龍:坂本竜馬が師事したことでも知られる土佐藩の儒学者。積極的な通商により国の富を増やすべしとした彼の意見は、この時代非常に開明的、かつ希少なものだった。彼のまとめた「漂巽紀略ひょうそんきりゃく」(講談社学術文庫にあり)が藩主山内容堂へ提出され、それがのちに多くの大名の間でも評判になった。だから、福岡藩主黒田の献言(「7-7.幕府の対応と阿部正弘の苦悩」にも彼の名前がでてきたわけである。

次回からは、舞台を長崎へ転じます。ペリーが去ってから約1ヶ月後、ロシア艦隊が長崎へやってくるのです。息つく暇もなかったこの頃の日本、実に大変な時代だったと思います。

続く


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