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№5 これまでの順子さん ~診断~

僕の妻の順子さんは、「多系統萎縮症(MSA)」という原因不明の難病に罹患しています。

人が人になる前から持っている、生き物の成り立ちや生命の根源にかかわる神秘な世界、僕にはとても理解のできない脳の一部が小脳です。順子さんの病気は、この小脳が徐々に壊れていくという病です。

「考える」という人に与えられた力が脳にはあります。「コギト エルゴ スム(我思う、故に我あり)」。小脳が萎縮してうまく活動しないといっても、ものを考え、こころにもいろいろな感情が芽生えます。順子さんは、歩けません。車椅子生活です。呼吸障害があり、睡眠中に大きないびきをかいて、無呼吸が起こるため、夜寝るときは酸素吸入器(CPAP)を装着して寝ます。最近では、振戦(しんせん)といって、首や手足が本人の意志とは無関係に、小刻みに揺れる症状もあらわれました。

小脳という運動機能をつかさどる部位が壊れていくことで、困ることのひとつが、「考える」ことを、相手にうまく伝えられないということです。伝えたい言葉が、弱い息と発音の崩れによって、ろれつの回らない聞き取りづらい言葉になってしまいます。言葉をつくるには、頭だけではなくて、のどや声帯や舌や口の動きや、呼吸やたくさんの力が微妙に関連しているといいます。そのつながりを上手に制御できない症状を「構音障害」といいます。

順子さんの「さしみ(刺身)」は、僕には「サシピ」に聞こえます。

「順子さん、夕飯何食べたい」、「サシピ」、「店長に聞いたけど、サシピはないって」

嚥下障害(飲み込む力が弱い)がある順子さんにとって刺身は食べやすい食材で、しかも好物で、食べたいとおもう順子さんと、刺身は高いと家計を案じる僕の会話です。順子さんは、自分の言葉を僕に伝えたくて、サシピは、サシヒ、サシイ・・サシミーと変化して、刺身と言っていることは、実は僕も理解していながら、わからないふりをします。幾度も「なに、サシピ」と聞く僕に、順子さんもしまいに吹き出します。

たまに我が家に帰省する子どもたちが、「ママ検定」ということを言い出したことがあります。誰がどれくらい順子さんの話を理解できるか、ママ語の理解力試験ということらしいです。

「俺が一番、1級。お前は2級。」兄弟で騒いでおりました。そのおりに、「おやじは3級」との子どもたちの評価で、毎日そばにいる僕が最低の評価でした。

言葉はコミュニケーションにとって必須かもしれません。話す言葉は、その意図や感情があふれていたり、あえて思いを隠そうとしたり、ふとした発言の中に本意がみえたり、社会的背景や俗にいう生まれや育ちを感じたりと、いうまでもなくたくさんの機能にあふれています。順子さんと共に暮らした25年の歳月の中で、僕は順子さんとどれだけ話しただろう。順子さんは僕に何を語ったのだろう。

もちろん、夫婦の関係は言葉だけではありません。ふれあい、みつめあい、笑いあい、にくみあい、ときには共感にはほど遠い無感覚なときもありました。相手の存在が当たり前すぎて、「嫁さんって空気みたいなもの」と、どこかで聞いたようなセリフを、それがかっこいいかのように友人に語っていたこともありました。

順子さんの「コギト エルゴ スム(我思う。故に我あり」について考えます。今日も、順子さんは「我あり」と感じているだろうか、と。

構音障害;ことばを理解しているし、伝えたいことばははっきりしているのですが、音を作る器官やその動きに問題があって発音がうまくできない状態を構音障害と言います。構音障害があると話の内容が相手に伝わりにくかったり、相手が話し手の音に不自然さを感じてしまい、コミュニケーションに支障をきたします。

日本医師会・言語障害と構音障害

順子さん、確定診断

2020年2月になりました。順子さんの歩行障害はだいぶ進み、僕が「ペンギン歩き」と呼ぶ、両足の間を肩幅ほどに開いて、ちょこちょこと歩くことで、平衡感覚不足の弱点を補うような歩き方をします。こんな歩き方では、仕事もできません。順子さんは、2月1日の勤務をもって、仕事の継続ができないことを会社に告げました。順子さんの新しい仕事はちょうど1年で終わりました。

前回(№4)の診断時に、「脊椎小脳変性症(SCD」のほかに「多系統萎縮症(MSA)」という病気の疑いも担当医から指摘されていました。そのため。2020年1月28日に脳DATシンチ検査(ドーパミン画僧診断)を受けました。この検査は、「多系統萎縮症(MSA)」のひとつの特徴であるパーキンソン病のような症状の有無を客観的に判断する検査だということでした。

2月6日、検査結果を聞くために、僕たち二人は病院へ向かいました。予約の指定時間、医師は扉を開き、「お入りください」と、僕たちを診察室に向かい入れました。

医師の診察がはじまりました。鼻指鼻試験では、毎度のことですが順子さんが妙に照れ、小さなハンマーで腕や足をたたく打腱器検査では、緊張のしかめっ面を浮かべていました。長い問診は、歩行困難や平衡感覚の不具合、便秘。若干の失禁。立ち上がったときに目の前に砂が走ったように見えること、など、今までも繰り返してお話したこと、 そして最近の様子をお伝えしました。

うなずきながら話を聞いていた医師は、一息をいれてから、

順子さんの病気は、「脊椎小脳変性症」ではなく、「多系統萎縮症(MSA)」という病名の病だと、確定診断を下しました。

歩行障害などの症状とCT・MRIの画像判断による小脳変性、脳DATシンチ検査の結果でのパーキンソン病のような傾向、立ち眩み(起立性低血圧)や失禁などの自律神経系の症状などをふまえての診断だといいます。

「多系統萎縮症(MSA)」とは、小脳だけではなく、脊髄、自律神経、末梢神経など、人が生きるための基本システムを構成する重要な部分(Multiple System)が、正常な機能を失い、縮小または減少する(Atrophy)、「Multiple System Atrophy;MSA」の病名通りの症状が、順子さんにはあらわれていました。

パーキンソン病のような筋肉のこわばりはまだありません。それでも、歩行障害だけではなく自律神経の症状はあります。

僕は診察前に、インターネットで、難病支援センターの公開情報や、医療論文、神経難病の書籍などを読み、「多系統萎縮症(MSA)」について調べていました。ネガティブな情報にあふれていました。そこには、発症から5年ほどで車いす生活になり、10年ほどで臥床状態を経て亡くなることが多いと、書かれていました。急死する症例もあるそうです。飲み込む力(嚥下障害)がなくなり食事がとれず、生活が困難になることが書かれてありました。

「多系統萎縮症(MSA)」は原因不明な不治の病で、治療法もなく予後10年で死ぬ。しかも、徐々に身体の機能を失いながら。

前回の診断から僕は、順子さんの予後と死について、考え続けていました。1万人にひとりという、だれかが大群衆の中に石を投げて、それが自分にあたることなどありえない、そんな確率の「不治の病」が、順子さんにやってくるとは、とても信じられない。そして、もし罹患していることが事実なら、これからの順子さんはどうなっていくのか、順子さんは、どう感じるのか、僕はそれをどう受け止めるのか。順子さんは病気に本当に罹患しているのか、予後のネガティブな情報は真実なのか。順子さんの未来はどうなっていくのか。どうしても、医師に相談したかった。

「老い」が人それぞれ違うように、病気の進行も人それぞれ違うと医師はいいました。そして、言葉を継いで、「多系統萎縮症(MSA)」に罹患したある患者のはなしをはじめました。

詳しくお話しできませんが、医師が担当する同じ病気を持ち、病気と闘っている患者さんのおはなしをしてくれました。今までに経験したことのない、あらたな趣味をみつけ、日々挑戦しながら目的をお持ちになって暮らしている女性患者のはなしでした。順子さんは、大きくうなずきながら聞いていました。

医師は、順子さんの睡眠中にイビキをかくことはないかと、しかも高音でピーと鳴るようではないかと聞きます。声を出す声門(のどにあって息を調整する弁のようなもの)の開閉がうまくできないと音がでること。閉まったままになれば呼吸ができなくなり急死する場合がある。また、危険な症例として、嚥下機能の低下による誤嚥と、それに伴う誤嚥性肺炎などの合併症が、急死をまねく場合があると話されました。

医師は、順子さんが「多系統萎縮症(MSA)」に罹患しているという前提のもと、僕が診察前に知ったネガティブな情報は真実で、歩行困難による車椅子、臥床生活、遺漏、気管切開、など待ち受けている困難は、人によって時期が異なるけど、必ずやってくると話しました。

今、順子さんと僕に必要なのは、病気の情報です。暗闇に沈んでいくような生き方はしたくありません。病気を正しく理解し、病気と闘い、生きていくことです。このときの僕は、けっして暗黒の絶望の泥沼には足を踏み入れないと誓いながら、胸を締め付けられるような痛みを感じ、一寸先もみえない濃霧の中、順子さんの腕をきつく抱え、絶対に離しはしないとおもい、今日の続きに明日があって、明日になってもまた明日が続き、平凡な日々のつながりが、僕たちを支えてくれると、ほのかな明かりを求めていました。

帰りに、いつもの蕎麦屋でそばを食べよう」、診察後、いつものように僕は順子さんを誘いました。

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