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天部信心の肝心

 天部の諸尊を信心すること自体は、この世の荒波を乗り越える手段の一つとして、御佛が一つの手段として世に御下しになったものなので良いのですが、大乗佛教の枠内で行わずに、我利我利亡者の道を進むと自ら破滅していきます。

 大乗佛教の下で御教えを奉じて、御佛の御勧めになる精進を忘れずに、そのうえで信心する故に、現世利益を得る代わりの代償も少なくて済んでいる。また、障りが仮にあっても、そのまま天部の実類(剥き出しのままの力のある靈的存在)を拝むよりも軽く済むし、対処法もあります。

 大乗佛教の天部信心は基本、權類(佛菩薩が權<かり>に天部の姿に化身している格好)への信心なので安心なのです。この「枠」という御佛の設定されたものの外側は、弱肉強食の眞の実類の世界。眞の実類は人間の望むがままに利益を與へますが、その代わりに求める代償や障りといったものも大きい。一時的な快楽の為に大きなものを失う結果となり、最終的には不幸となります。

 天部の信心で確りとした生活を送り幸福を得ようとするのであれば、前述の如く大乗佛教という大枠を忘れない事。実際には化身の前の御尊格である本地佛(菩薩なども含む)をよく拜み、加えて佛道への精進に努めることが大切です。本地を尊重しないと天部の実類の面とつながって行ってしまいます。その結末がどうなるかは言わずもがなです。

 天部を実類と權類に分けているからと言って、尊格が分裂している訳ではなく、人間のサイドがその尊格のどの部分を引き出すかです。現世に近い存在なので人間に譬えるのが適当ですが、一人の人間にも良心的な部分とそうでない部分など多面性があるように、天部の各尊格にも佛菩薩に繋がる面とそうでない面とがあります。

 ただ、カテゴリーとしては同じ天部でも上界の尊格は、内面が佛菩薩と同じなので別格です。信心対象としては毘沙門天様、吉祥天様、辯才天様がよく知られます。上界の天部尊は、日々の精進等々、御利益を頂戴する迄のハードルも高いですが、その分安心安全です。

 現世利益が著しいのは、地下天に住む諸尊ですが、そうなると前述の「枠」内での信心が良いのです。現世利益が欲しい向きは切羽詰まっているケースも多いですが、そんなときこそ「枠」を守った信心が最終的には一番良い選択となります。実類を拝んで、魔に魂を売るが如くにしてもほんの一瞬の一時的な楽だけで、長い目で見れば苦が待っています。途中で梯子を外されて堕とされるようなもので、ロクなことにはなりません。

 例えば、重傷を負ったのに取り敢えずの応急処置だけで満足し、その後のきちんとした本格処置をしなければ、生命をいたずらに失う結果になるのと同じで、焦って不運しか齎さない選択をしないことは大事です。天部信心は劇薬ににて、要所要所で適切に用いれば役に立ちますが、そうでないと逆の結果を招くことになります。

 天部信心は怖いわけではなく、薬剤と同じように「薬は用法・用量を守って正しく使う」のであれば、世の中をうまく渡る特効薬です。そこで出番となるのが信心を指導する行者の存在です。行者は客観的な視点を持った、信心生活に必要なアドバイザーとなってくれます。合掌

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