僕たちはどう稼ぐか

ビジネスはどこまでいってもお金儲けを目的とした活動です。ただ、このお金儲けは必ず商品を迂回して達成されるということが重要なことだと思うのです。つまり、ビジネスは迂回そのものなのです。そして、その迂回の仕方の中に、ビジネスのつらさも面白さも潜んでいるとわたしは思います。

平川克美『一回半ひねりの働き方ー反戦略的ビジネスのすすめ』、角川新書、2016年、29頁

わたしが言いたいことは、実は「ビジネスはお金のためだけじゃないよ。もっと崇高な目的があるはずだよ」ということではありません。ビジネスを「お金」であれ「達成感」であれ、あるいは経営者の自己実現であれ、明確な目的が事前にあるものだとする考え方そのものが、ビジネスをつまらなくさせている原因のひとつであるということなのです。
 迷路をくぐり抜けると財宝の小箱に辿り着くというような「上がり」のあるゲームとは根本的に異なる面白さがビジネスにはあると、わたしは言いたいのです。将来に目的というものを設定することによって、ビジネスの「現在」は将来に奉仕するための手段になります。この現在の絶えざる手段化こそ、ビジネスの本来の面白さを殺ぐ原因であると思っているわけです。

同書、37-8頁

企業が業を企てるのは何故か。

とりあえずは「生き延びる」ためである。

企業が生き延びるには、利潤を生み出さなければならない。
利潤を生み出すには、商品を売らなければならない。
商品を売るには、「人が欲するもの」をつくりそれを「人に与え」なければならない。

つまり、「人が欲するものを人に与える」ことができれば、企業はひとまずこの世界に生き永らえることができる。


しかし、ここに最大の問題がある。

誰もが知っているように、人はすぐ身近にいる人間が欲しがってるものさえよく理解していない。
いわんや赤の他人においてをや。

そんなものが手にとるように透けて見えれば誰だって苦労しないだろう。
そして、ほとんどの起業家が失敗するのは、「人が欲するもの」をつくろうとした結果、「誰も欲しがらないもの」をつくってしまうからである。


「人が欲するものを人に与える」

この難題に対する「正解」はいまだ見つかっていない(からこそ巷にあれだけのビジネス書が溢れかえっているのだ)が、ひとつの解き方は、「人」のところに「自分」を代入してみることである。

起業セミナーなんかでは、「誰のどんな課題を解決するか」という問題提起から始まるのが定番だが、実は多くの起業家にとって、世の中の「解決すべき課題」というのは、たいてい「自分の課題」のことである。
というより、「自分の課題」をほかの誰も解決してくれないから(既存の商品やサービスでは満たしてくれないから)、わざわざ面倒な手間をかけて自ら業を起こさざるを得なかったのだ。

しかし、それならなぜ、起業家は「自分の欲するもの」を「人に与える」のか。
「自分の課題」さえ解決すればよいのであれば、そもそもそれを商売にする必要なんてないように思える。


ここに最大の秘密がある。

それは、
「人間は自分の欲するものをまず他人に与えることでしか手に入れることができない」
からである。

これは万古不易の人類学的真理である。

なんでと問われても困る。

例えばサッカーにおいて、なぜ自分たちのゴールにボールを回収するのではなく、相手のゴールにボールを送り届けるという形式が採用されたのか、誰にも説明できないのと同じである。

我々は決してその起源に遡ることができないし、ゲームに参加する以上はそれを受け入れるほかない。
そして、知ってか知らずか、我々は日常のほとんどを、そのルールに従って実際にプレーしている。

「おはよう」と言ってほしければ、自分から「おはよう」と言うしかない。
酒を呑みたければ、空いている他の盃にまず自分が注がなければならない。
自分を理解してもらうには、まず相手を理解しなくてはならない。

情けは人の為ならず。
人がひとりでは決して生きていけないように、我々が参加を余儀なくされたこのゲームは、かのような面倒くさいルールによって成立しているのである。


話を戻そう。

「人が欲するものを人に与える」には、ひとまず「自分が欲するものを自分に与える」。
そして、「自分が欲するものを自分に与える」には、それを「人に与える」。

つまり、「自分が欲するものを人に与える」人間こそが「人が欲するものを人に与える」ことができる、そしてその迂回を通じてようやく「自分が欲するものを自分に与える」ことができる、ということになる。

なんともややこしい話ではあるが、これは経験的には納得せざるを得ない。
だから、一流の企業やビジネスマンは、あなたもよく知るように、常軌を逸して気前が良い(ように見える)のである。

なぜそんなにサービスしてくれるのか、なぜそんなことができるのか、そうすることでいったい何を欲しているのか、
それが気になって仕方がなくなったあなたは、まんまと彼の「思う壺」である。

というのは、そうなるともう彼自身があなたの「欲するもの」になってしまうからである。

「どうやって、儲けるの?」という問いの前に、「何を与えたいのか?」という問いが先行してはじめて、起業の物語はスタートします。というのは、与えることなくしてその反対給付であるお金を手にすることはできないというのが、ビジネスの順序だからです。

前掲書、71頁

人は、「理解可能なもの」にはすぐ飽きるし、「理解不可能なもの」には耐えられない。

「人が欲するもの」は、そのあいだにしか存在しない。
そして、一流のビジネスマンやアーティストは、人をその「グレーゾーン」に釘付けにしてしまう。

ブランド品から百均まで、売れ続ける商品のほとんどは、「なぜそんなに高価(安価)なのか、言われてみればよくわからない」商品である。

名作と呼ばれるのは、「作者のメッセージを誰もが理解できる」作品ではなく、「何が表現されているのか、様々な考察が飛び交い繰り返し鑑賞したくなる」作品である。

そして、我々が魅了され、運命さえ感じてしまうのは、「何を考えているのか、何を欲しているのか、よくわからない(んだけど、何だかわかりそうな気もする)」人間である。

そして人は、言葉やモノの交換=コミュニケーションを通じて、その「謎」を解明しようと夢中になる。
のだが、皮肉なことに、「謎」が明らかになった瞬間、人は交換をやめてしまう。

芸術の世界で「理解されると飽きられる」と言われたり、巷で流行語になった「蛙化現象」(好きな相手に好意を持たれた途端に冷めてしまう現象)が起こったりするのは、そういう理由なのである。


話を戻してまとめてみよう。

「自分が欲するものを人に与える」人間こそが「人が欲するものを人に与える」ことができる。
それは畢竟するに、「自分が欲するものを人に与える」人間は、彼自身「人が欲するもの」になってしまうからである。

ここまで読んで、「結局この人は何が言いたいのか、こんなことを言うことでいったい何を欲しているのか、よくわらかない(んだけど、何だかわかりそうな気もする)」と思ったあなた、
まんまと私の「思う壺」です。

おひねりはここやで〜