我らが豊葦原の瑞穂の国におはします八百万の神は、もともとその多くが、人間にただ災禍をもたらす存在であった。 …と書き出しておいていきなり撤回するのもどうかと思うが、正確にいえば因果が逆だな。 つまり、人智の及ばぬ「よくわからないもの」に対して、人はとりあえず「神」というラベルを貼って畏れ奉ることにしたのである。 そんな気まぐれに「罰」を与えたまふ神に対して、人々はただ「無事」を祈った。 「無事」とはつまり、何も起こらなくてよい、それが最良ということである。 それは、日本
企業が業を企てるのは何故か。 とりあえずは「生き延びる」ためである。 企業が生き延びるには、利潤を生み出さなければならない。 利潤を生み出すには、商品を売らなければならない。 商品を売るには、「人が欲するもの」をつくりそれを「人に与え」なければならない。 つまり、「人が欲するものを人に与える」ことができれば、企業はひとまずこの世界に生き永らえることができる。 しかし、ここに最大の問題がある。 誰もが知っているように、人はすぐ身近にいる人間が欲しがってるものさえよく理
私は、知る人ぞ知る「名言厨」である。 「難の無い人生は無難な人生、難の有る人生は有難い人生」 「失敗したことのない人間は挑戦したことのない人間である」 「前例がなければつくればいい」 「なりたい者になれるのは、なろうとした者だけだ」 10代から20代前半にかけては、かのような啓発的格言をずらずらと手帳に書き留めては自己陶冶に努めてきた(気がする)。 「お前の道を進め、人には勝手なことを言わせておけ。」 「配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどういう意味であれ。」
私の会社には一つの商品しかない、 私である。 ㈱キャピタリアンの目的は、商品であるところの平野亮を売って、金を稼ぐことである。 一方、平野亮の目的は、愉快に生きることである。 ㈱キャピタリアンの行動原理は、最小のコストで最大限の利益を求める「最大生産努力」である。 平野亮の行動原理は、最小の労力で最低限の暮らしを愉しむ「最小生計努力」である。 ㈱キャピタリアンの判断基準は、事業の再現性・拡大可能性であり、その市場価値である。 平野亮の判断基準は、経験の一回性・唯一無二性
ここに来て3年が経った。 「どうして『ここ』なの?」 移住してきた者には定番の質問である。 そんなの聞かれても困る。 理由なんてない、ただなんとなく。 そういう人は案外多いのではないか。 「ここがここで、私が私だから」 そうとしか言いようがない。 人との出会いだってそうでしょう。 人を愛するのにそれ以上の理由が必要だろうか。 「ここ」とはどこなのか。 「ここ」は「ここ」である。 そうとしか言いようがない。 私が今いる「ここ」とは、「資本主義社会」でも「中山
私はこう見えても人の機嫌を伺って生きてきたタイプの人間である。 …と聞いて一言(どころではなく)異議申し立てせずにはおれない人もちらほら(どころではなく)おられるかもしれない。 だがもし、それが客観的事実と反するというのならば、それは一つには、私が他の誰よりも先んじて伺うのが、何を隠そう「私の機嫌」だからである。 (もう一つは、他人の機嫌を伺いながらもそれを損ねさせずにはいられない私の中に棲む天邪鬼のせいであり、すでに文頭から軽口を叩いて不機嫌になる人を量産しているあたり
この記事はこんな人にオススメです。 自分一人の株式会社(いわゆる一人会社、一人法人、一人社長)の設立を考えている方 (筆者のように最寄り駅まで車で30分、いわんや登記所まで2時間かかるような)世界のさいはてにお住まい、あるいは単に家から出たくないので、完全オンラインによる、さらには、自力本願、興味本位、あるいは(筆者のように)単に暇なので、完全自己完結による設立登記を目指している方 反対に、こんな人にはオススメできません。 アナログ派の方(とりあえず登記所に行って必要
山に道をつくる仕事をしている。 そもそもなにゆえか。 人間の世界のさいはてに立ち、神々の領域と相対する。 そこでは教科書もマニュアルも通用しない。 この未開拓地を前にして、その「さきがけ」をどう務めればよいのか、 それは誰にもわからない。 わからないからやっているのである。 世界のさいはて、そのむこうがわにあるのは「富」である。それは、食料でありエネルギーであり嗜好品であり、人間にとってのあらゆる富はすべて「むこうがわ」に眠っている。 気前の良い神は、いつでもそ
ここ奈良県吉野では、「密植、多間伐、長伐期」を特徴とする林業が300年にわたって営まれてきた。 高密度に植えられた杉や檜の苗は、光を求めてまっすぐ上に伸び、少しずつ太りながら目のつまったまん丸な幹を形成する。 木々同士を競争させつつ、混みすぎたところは間引きをする。それをまめに何度もくりかえしてゆく。 そうやって樹齢200年をもこえる大径木を育てつつ、均整のとれた独特の「美林」を残してきた。 そのような時間と手間のかかる生産システムを可能にしたのは、所有と経営の分離である。
とかくにかくありき、 「働く」 「就職は?給料は?」 ぼくは答えられない。 「研究する」 「学位は?論文は?」 ぼくは答えられない。 しかるに、 働くとは、とりあえずどこかの企業に入って労力と引き換えに賃金をもらうことらしい。 研究とは、大学組織のなかでポストを得るために業績を積み上げることのようだ。 さりとて、 働くとはなんぞ。 経済を為すことではなかったか。 研究とはなんぞ。 学問を為すことではなかったか。 しかれども、 企業が「世を経め民を済う」ための「
田舎では食えない。 林業では食えない。 これまで何度耳にしたことか。 だったらどうする? 薪、木工、アロマオイル? 山菜、キノコ、ジビエ? あるいは、カフェ、ゲストハウス? キャンプ場、アウトドアレジャー? はたまた、ブログ、YouTube、SNS、、、? 身のまわりのあらゆる資源を売れ! 持てる知識や能力をお金に換えろ! やりたいこと、得意なことを収益化せよ! とにかく、「商品をつくれ!!」 そんなに書くのが好きなら、このnoteだって(もちろんもっと意味のある
天川村に来てから一年が経った。 吉野林業界のオーソリティにしてイノベーターでもあらせられる岡橋清隆先生に師事する僥倖に恵まれ、修行に励んできた一年間なわけであるが、先日宴の席でそのお師匠さまから、 林業に未来はない。林業では食っていけない。 即ち、いかに林業をせずに林業をするかを考えなければならない。 という酔余の放言を聞かされ、はてさてどうしたものかとのんべんだらりこしている今日この頃である。 しかしこれは、よくよく考えてみれば自分の賢しらに問題があったと言わざるをえな