お前はことさら未完成だ

 私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただ一人のかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。

内田樹『先生はえらい』、筑摩書房、2005年、33頁

私は、知る人ぞ知る「名言厨」である。

「難の無い人生は無難な人生、難の有る人生は有難い人生」
「失敗したことのない人間は挑戦したことのない人間である」
「前例がなければつくればいい」
「なりたい者になれるのは、なろうとした者だけだ」

10代から20代前半にかけては、かのような啓発的格言をずらずらと手帳に書き留めては自己陶冶に努めてきた(気がする)。

「お前の道を進め、人には勝手なことを言わせておけ。」
「配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどういう意味であれ。」
「負けても終わりではない、やめたら終わりだ。」
「勝つことが全てじゃないが、勝つしかないんだ。」

まだまだきりがないが、その中でも特に銘記しているものがある。


「お前はことさら未完成だ」

この言葉に出会ったのは、中学の美術の授業だった。
ゴーギャンか誰かのドキュメンタリーを観ていた時だ。
人生に絶望して死を選んだ彼は、混濁する意識のなかでその呼びかけを聞いた。

美術は好きじゃなかったし、熱心に聞いてもなかった。
なぜそれだけ覚えているのか分からないし、もしかすると記憶違いかもしれない。
ただそれ以来、その言葉はことあるごとに私を奮い起こすことになる。


「お前はことさら未完成だ」

いつからか私は、その呼びかけに耳を塞ぐようになった。
それはおそらく、周りが絶えず私に向かってそう責めたて始めたからである。

例えば、ショッピングモールに行く。
すると、魅力的な商品の数々に囲まれ、ひとつひとつが私に訴えかけてくる。

「お前はことさら未完成だ(だから我を欲望せよ)」

すべての商品は、人に欠落感を与えそれを補填することを目的にしている。

「美しく健康的になれ」というのも、「もっと稼げる自分に合ったスキルを身につけよ」というのも、「理想のライフスタイルを手に入れませんか?」というのも、通底するメッセージはみな同じである。

「現状に満足するな」

この集中砲火を前に、私はあまりにも無防備だった。


「お前はことさら未完成だ」

確かにこの言葉は耳ざわりの良いものではない。
しかし、絶望の淵にいたゴーギャンが、自身の可能性に気づき人生の開放性を悟ったように、それは希望をもたらす言葉であるはずだ。

私は確かにことさら未完成である。

でもそれは、誰かがすでに所有している財貨や地位、あるいは知識や技術を、自分がいまだ所有していないからではない。
つまり、自分がその誰かに「似ていない」からではない。

我々がことさら未完成なのは、おそらく誰かに「似ていない」からであり、おそらく誰かに「似すぎている」からである。


「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」、これが学びの信仰告白の基本文型です。

内田樹『日本辺境論』、新潮社、2009年、146-7頁

「お前はことさら未完成だ」

人は生まれてまもなく、混濁する意識のなかでその呼びかけを聞く。
それに応じた瞬間、学びは始まる。
即ち、その意味も価値も知らぬまま言葉を覚え、無我夢中にもがくうちに立って歩けるようになる。

だがそれは、「完成」に至るためではない。

他人が発するのと同じ言葉を語れるようになるのは、他人と意思疎通をとるためである。
そして、他人と意思疎通をとるのは、自分だけにしか語りえない言葉を発するためである。

「お前はことさら未完成だ」

そこには、「他の者と同程度になれ」と「オリジナルな存在になれ」という、相反するメッセージが同時に含意されている。

我々が若者を教育するのは、みんなと同じ仕事をしてもらうためであり、他の誰にもできない仕事をしてもらうためである。

標準的でなければ生きていけない、
独創的でなければ生きていても仕方ない。

ユーザーフレンドリーかつユニークであれ。

困難な要求である。
それがこの言葉のもたらす絶望と希望なのである。


「そんなこと」が人間にできるとは思ってもいなかったことを、自分ができるようになるというのが、修業の順道なのである。だから、稽古に先立って「到達目標」として措定されたものは、修業の途中で必ず放棄されることになる。そもそも修業とは「そんなところに出るとは思ってもいなかった所に出てしまう」ことなのである。

内田樹『修行論』、光文社、2013年、174頁

私はことさら未完成だ。

それは、「社会的成功」を手にしていないからでもなければ、「本当の自分」を見つけられていないからでもない。

確かに、ろくにものを知らないし、コミュニケーションは下手すぎるし、技倆は半人前である。
読むべき本も、出会うべき人も、積むべき経験も、私には数限りなく残されている。

もちろん、どんな本にも、どんな人にも、どんな経験にも、何かしらの学びはある。
かといって、手当たり次第に本を漁り、人脈を広げ、当たって砕けられるほど、私はタフでも悠長でも真面目でもない。

さあどうしよう。

何を読もうとも、誰に就こうとも、どんな事を経験しようとも、全くの自由であり、あらゆる可能性のうちに人はひらかれている。
だが、というより、だからこそ、今、ここで、自分に、自分だけに、必要だと思われる一冊の本、一人の師、一度の経験を、人は過たず選ばなければならない。

困難な要請である。
そこに学びの絶望と希望はある。

おひねりはここやで〜