いい肉の日に寄せて
11月29日木曜日、晴れ
お昼にチャットで、「五反田駅のそばで何の行列かとおもったら、牛角で(いいにくの日だから)食べ放題をやっていたみたい」というのが流れてきた。
飽食の時代。
おいしいものを食べられるというのは素敵。
だけれども、だ。
食肉として食べられる程度にまで肥育した農家は、そしてそのために解体された牛は、そんな馬鹿げた値段で投げ売りされることなんか、これっぽっちも想像しなかったろう。浮かばれない。
いいものを、価値に見合った値段で、きちんと買う。
そういう「礼儀」と、そして矜持は、僕は持ち続けていこうとおもう。
* * *
いま、この投げ売り価格だからこそ買えたと「お得」な気持ちになったものは、その値段がゆえに顧みることもなく、単なる場所ふさぎのお荷物になりはてる。
買えないものがたくさんある中で、なにを我慢して、どうやって捻出するか。呻吟と苦労とを重ねて、厳しい選択を経て手に入れたものこそが、自分の輪郭を強く形づくるものだと、僕はおもう。
そしてまた、きちんとした対価を支払う行為こそがあらわす敬意で、人は自分の価値を自覚できていくのだとおもう。
* * *
だから、ひるがえって。
買い叩いて売りさばく者は、
そして尊厳を踏みにじることで生まれた安物に列をなして贖う者は、
自らをして、巡りめぐって自分の価値を貶めているのだと、
そうおもう。
安いものしか買えない状態が続くから、
より安いものを売ろうとする。
安いものを作るためには、
安く上がるよう、その生産者を踏みつけにする。
踏みつけの連鎖が、
結局自分をも踏みつけにする。
自らを飲み込むウロボロスのように、
僕たちは自分で自分を踏みつけにする。
グロテスクなデフレの海に浮かぶ、僕たちは。
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