『ホモ・デウス』

11月29日金曜日、晴れ

一週間ちかくかけてようやく上下巻読み終える。

神は死んだ。そして人間を含めて動物はデータを処理するアルゴリズムである、という身も蓋もない話。神亡きあと、人間性(ヒューマニティ)が高らかに歌いあげられた。内なる声に耳を傾け己が欲するところに従うこと、そして他者の快感を損なわない限りにおいて自らの快楽を追求してよい。それが現代の神話だった、と。

しかし次第に不可分であるはずの、一個にまとまるはずの自己が、実はそんなものは存在しないということがわかってきた。その場その場を経験する自己と、いくつかの経験をもとに尤もらしい話をでっちあげる物語る自己。いくつもの器官が、その場その場で生み出した感情が綱引きし、勝ち残ったものが主導権を握る。「したい」と感じる能動的な意思が、その実、化学物質やホルモンの刺激により身体が「する」と決めたあとで、もっともらしく「したい」と感じている──なんてこともわかってきてしまった。

神話のあとで祭り上げられた「自由意志」。これが存在するという幻想ははぎ取られつつある。感情や感性さえ、そんなものがなくても計算さえできれば人間を遥かに上回る成果をあげられると近年の機械学習、とりわけディープラーニングが示しつつある。

となれば次にくるのは「効率よく情報(データ)を処理できる」こと。これが追求される善になるのではないか、という話。あまりに説明の流れが自然なためか、納得してしまいそう。

自ら生み出した機械が人間よりいろいろなことを効率よく、うまくやってのけるなら、ほんと人間はなんのために存在するのか。生きていく価値を見出せるのか。
そんなことを思って、どんよりと暗い気持ちになる。(ところで価値がなければ、役に立たなければ生きていてはいけないのだったか?)

* * *

人間には感情がある。感じる心がある。感じる心は尊い。

そうも言われるけれど、じゃあ心が(そんなものがあるとして)感じることに優劣はあるのか。雄大な自然を見て、華麗な踊りを見て、壮麗な楽曲を聴いて、勇壮なスポーツを観戦して、こういったことで覚える感動と。友達と話して感じる楽しさ、恋人との触れ合って覚える甘苦しさ。
他方で人と競って打ち勝つことで覚える達成感。人を傷つけることで覚える嗜虐の快感。言葉にはしづらい昏い行いに呼び起こされる感情だって、たくさんある。

裏側の薄汚いものまで含めてすべて尊いなんて言えるのか。

そうでないとしたら。優劣があるとしたら、それは誰が決めるのか。
その優劣は誰にでも当てはまる汎用性を持つのか。(そんなことはどうにもなさそうだ)
優劣があるとしたら劣った感情は去勢されるのがよいのか。優生思想と念頭に考えると優劣や是非を人為で決めて間引くなんてのは間違っている──気もする。けれど優生思想がほんとうに間違っているのか。重い障害を持って生まれることがわかっていても、なお世に送り出すことが本当に正しいのか。人を傷つけたり殺めたりした人を裁くのは是か非か。

人が生きていることが尊いことだ──なんて、簡単には言い切れない。

言えたら、信じられたら、よかったんだけれど。
神なき今、あるいは労働によってボロ雑巾にならずに済む今、正面から見据えるにはあまりに重いことなので、考え抜くことはできずそっと目を逸らす。

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