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『半径3メートルの倫理』オギリマサホ

見出し画像は Nick Youngson CC BY-SA 3.0 Alpha Stock Images による。

地球環境や宇宙といった壮大なスケールの問題はさておいて、自分の身の回りの悩みについて「倫理」観点の異見を紹介した本。

それぞれの悩みにまるでただひとつ正解があるかのような構成、見開きでひとつの回答が示されていることは残念。でも(キッパリと立つことが)難しい諸問題に、揺るぎないひとつの指針が示されることはありがたい、だろう。(これが「唯一」の正解として幅を利かす世界は、それもまた窮屈だろうけれど)

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道徳はお互いの欲望を調停する道具。振りかざす人の心には「他人の快楽への嫉妬」がある。(池田清彦)

「怒りは不正に復讐しようとする欲望」「不正に怒りで応えるのは心の過ち」「他者の過ちは怒り(という過ち)では正せない」(セネカ)

激情は時間が解決する。性急にことを運ばない。穏やかな気持ちをもつ。

不倫は「義務不履行」の問題で、社会的犯罪ではない。(小浜逸郎)

いかなる場合にも嘘をついてはならない。(カント)

人間は自由であり、自ら選んだ道で自分を作る。『君は自由だ。選びたまえ。創りたまえ。』(サルトル)
──理不尽な上司に従い会社に残ることも、飛び出すことも自由。

『配偶者ある者が、自由な意思にもとづいて、配偶者以外の者と性的関係を結ぶこと』が「不貞行為」(民法770条)

人間がする善悪、美醜、賢愚などは「気まぐれな主観」が生じさせる相対的な価値判断。「真に正しいこと」がないから議論が対立する。(荘子)

自らの選択一切に責任を持たねばならないのか? これを「人間は自由の刑に処せられている」(サルトル)

時間は離散的に数えたり計量したりできない「純粋持続」である。(ベルクソン)
──「時間を使う」「節約する」と考えるのは捉えかたの誤り。「時間を節約するほど生活は瘦せほそり、なくなってしまう。」

時間をかけて我々の内部に浸透した習慣は、我々の考えや行動に支配的な力を持つ。「習慣の命令を理性的に反省することは、われわれには不可能である」(モンテーニュ)

目に見えないもの、わからないものに自らを脅かされるときに「不安」を感じる。
ハイデッガーによれば、自らの存在の意味を問う主体である「現存在」としてのわたしたち人間は(普段は日常的な頽落に気を紛らせているが)死への存在であることに直面したときに不安を感じる。

わたしたちが普段もちいる言語は(多様な人間の)生活──文脈に基づいている。言語の意味は文脈と切り離しては捉えられない。(ウィトゲンシュタイン)
──ハラスメントの境界線は「受け手」の文脈で決まる。相手が不快だと感じたなら、それはいじめ。

「権力を欲する者は、自分に近く、生涯を共にし、共通の利害関係を持ち、自分の権威が及ばないことで面子に関わるという者に対し、権力を揮いたいと切望する」
「女性が嫌々ながらでなく、いそいそとした奴隷であることを求める」
J.S.ミルは、男性の「自尊心」や「個人的利益」のために、優れた能力のある女性が従属させられている19世紀イギリスの社会制度を批判した。

「自分の意見」は他者なしに存在しえない。他者と関わることで自我が生じる。複数の他者と関わることで自我の社会性が形成される。
野球にたとえると、他のポジションの人間の行動を把握して動く必要があり、参加者全員の態度が自身の行動を決める。
自我には、自分に与えられる他者の態度「me」と、これら態度への自らの反応「I」の二つの側面がある。
「me」に対して「I」は内省し、自らの意見を生みだし、これを表明することで周囲の共同体を変えていく。(G.H.ミード)

人間の理性で判断できることには限界がある。これを支えるために「信仰」がある。
神を信じることはバカバカしいか? 否。信じる一択。すなわち:
存在を信じていて神がいたら報われる。いなくてもなにも失わない。
不存在に賭けると、勝ってなにも得ず、負けたら不信心の罪を負う。
重要なのは「信じる」行為。神に賭ける人は『忠実で正直、謙遜と感謝の念に満ち、慈悲深く誠実な友、真実を語る者になる。』(パスカル)

テイクのない純粋なギブ(贈与)はあり得ない。
デリダは、贈られた側に贈り物が「贈与」として意識されてしまうと同時に、純粋な贈与とはなり得ないと考えた。というのも贈られたと認知するや、これを「負債」と感じお返しをせねばならないと感じてしまう。

「徳のすぐれた人」「高貴な生まれの人」「大きな苦労、心配あるいは危険と引き替えに名誉を得た人」はそれほど妬まれない。
他人を嫉妬しやすい人は「自分に徳性のない人」。他人の幸福をけなすことで対等になろうとする人。嫉妬は執拗な長続きする感情で「最もいやらしく愚劣な感情」。(ベーコン)

社会では「法に反すること」と「期待に背くこと」のふたつの「悪い」ことがある。韓非子は(客観的な規範である)法を定め、厳密に適用することを主張。悪いことの基準を「法に反すること」に絞った。
──誰かを悪いと感じるとき、その判断の答えは自分の内にある。

生物として脆弱な人間は生き延びるために集団をつくってきた。このため集団を破壊する可能性のある人を攻撃する「制裁行動」(サンクション)が発生した。みんなの基準と少し違うだけの人に向けて発動する過剰な制裁(オーバーサンクション)がいじめの原因。(中野信子・脳科学者)

現実には強者に敵わない弱者が想像の復讐に耽り、強者を悪、自らを善と評価する。この怨恨が「ルサンチマン」。ルサンチマンが道徳に転化した。すなわち善意とは「報復することのない無力さ」、謙虚とは「不安に満ちた下劣さ」。(ニーチェ)

人間は自らを「価値あるもの」として他者に承認されることを欲する。他者も同じ欲望を抱いているので、お互いに相手に自分を認めさせようとする「生死を賭しての闘争」が生じる。このような闘争によってのみ人間的実在性が構築されている。(コジェーヴ)
──まず他者を承認し、それから自らが承認されるよう問いかけていくと良いかもしれない。

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愛について

かつて人間は二人でひとつの存在で、手足も4本ずつあるので早く走れて力も強く神々に挑戦するようになった。そこでゼウスは人間をまっぷたつに切断してしまった。すなわち現在の人間は不完全な状態である。失われた半身を求めるこの気持ちをエロースという。(プラトン)

自分や他者を信じる信念、この信念を持つ勇気が愛には必要。根底に「孤立感の克服」がある。相手に与え、配慮し、責任を持つ──このような能動的性質を愛は持つ。(エーリッヒ・フロム)

自分が愛するものは皆に愛され、自分が憎むものは皆に憎まれてほしい。しかし自分の愛する事物が、他者と緊密に結びつくと「愛する者への憎しみ」や「他者への嫉妬」が生まれる。(『エチカ』第三部、定理31, 35。スピノザ)

嫉妬は「自分が愛する人」と「その人を愛している者」とふたりに同時に向けられる感情。(ロラン・バルト)

特定の人や物を愛する気持ちを離れられたら、すべてを等しく愛せる。これを仏教で「慈悲」と呼ぶ。

自分の家族や自分の国だけを愛する気持ちは他への差別である。すべてのものを等しく愛する「兼愛」を尊ぶ。(墨子)

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