ベア・プログラミング

1月16日水曜日、晴れ

Twitter で「しんざき」さんのツイートにぶら下げたところ、ぷちバズっている。

お返しをいただいたので、もう一つ返した。

要は、(架空の相手にでも)

「語りかけること」で考えが整理される

ということ。
そしてもう一つ、ツイートでは返さないでおくけれど、おもいついたことがある。それは、

わからないことを「棚上げ」にして話を進める

ことによる効果。

我が身を振り返ってだけれど、わからないときって、わからないことの周辺をぐるぐる回り続けてしまうことがある。一方で、話──物語でもいいかな──にすると、「ここはわからないんだけれど、この先にわかっているところがあってね」と棚上げにして前に進めてしまうことがある。
「ここがわかったとしたら、だよ」「こういうことがわかるとおもうんだ」「それでね、……」と。

そしてここに魔法があるんだけれど、思考を先に進めたところから振り返ってみると、わからなかったはずのものがわかってしまう。そんなことがある。

山頂から下を見ると、やけに視界がひらけて遠くまで見える。それに似た効果。山登りだと、登れない道を登ったことにして見下ろすなんて芸当はできない。けれど思考は自由。できないことができちゃったりする。
上から見たら、回り込んで見たら、中から外あるいは外から内を見てみたら──そういう思考の飛躍。

「話」をすることで、先に進めることがある。

* * *

「しんざき」さんが冒頭のツイートで「教えてあげる」と「考えること」との思考の向き、ということを挙げていらっしゃる。これもまたポイントなのだろう。

こどもが「先生なら生徒よりできないとダメ」ということを話していて(持久走で、先生は走らなくてズルいということだったのだけれど)、これに対して「そうするとオリンピック選手を育てるコーチは、オリンピックでよりよい成績を出せる優れた才能を持った選手でなければならないことになる」「でもそれはおかしいよね?」と(大人気なくも)返した。

つまり先生という役割を担っていても、すべてを知っているわけでもなく、生徒より優れているわけでもない(ことがある。上位の学問機関だと、当たり前にそういう状況が起きる)。
でもこのときに、あたかも知っているかのように「教える」ことが求められる。

そして「知っている」という立場で物事を見ると、わかる。
(と、これはさっきの登山の例と似た話になった)

* * *

ということでティディベアを隣において、話しかけながら考えごとをすること、よいですよ。
(ベアはベアでも bear でなくて bare だったら──おまわりさん、こちらです!)

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