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久しぶりの江古田

5月20日土曜日。久しぶりに江古田に行ってきた。7年位前に当時のアシスタントNっちゃんの卒業制作展を見に行って以来だ。その時は彼女がいたので、そんなには江古田の街を歩かなかった。

静岡でカメラマンとして活動しているGの話はインスタで何度も書いた。しばらく疎遠だったが、Gのインスタに私が「おすすめ」として表示され、一昨年、実に24年ぶりに再会した。それ以来3回東京で飲んだ。そのたびに同級生Aの話が出た。

Aは札幌出身。3人で静岡にも札幌にも行った仲である。Aは卒業した日大芸術学部写真学科で技術員としてずっと働いている。住んでいるのも江古田だ。しばらく所沢校舎に勤務していたが、数年前に江古田に統合されて戻ってきた。Gが江古田に行ってみたいと言った。私も同感だった。Aに連絡を取った。

街をくまなく歩いた。現実の光景に1984〜1987年当時の江古田をトレースしてゆく。駅は綺麗になった。降りてすぐのところに古いレコード屋があったなあ。吉田拓郎のカセットテープを買った。あーここは「黒田武士」だったな。朝からカレーを食べたっけ。親父が『まいどっ』って言うんだ。「トレボン」はまだある!コーヒーを飲んだ。マスターは耳が遠くなった。

ここは「大盛軒」だった。ここが「洋包丁」だった。スパゲッティの「トキ」。「餃子の王将」の店員はクールなノッポと愛想の良いずんぐりのコンビだった。「トキ」の隣の本屋さんと、南口前の「BeBe」は昭和のままだ。「まつば」とあの大きい書店はもうないのか。体育会系の連中と行った「江古田コンパ」。酔っぱらって財布を置き忘れて慌てて戻ったな。

海の家のような広いお座敷で飲んだ大衆居酒屋「お志ど里」。大鍋でグツグツ煮えているモツ煮込み。貧乏学生の強い味方で、6人くらいで行って2人前の寄せ鍋を注文したことがある。『せーの!』で全員が一斉に箸を入れると一瞬でなくなったっけ。生姜焼き定食が330円の「じゅん」はこの辺だったよな?ラーメンと半チャーハンで200円の「愛情ラーメン」はここだったっけ?ああゲームセンターとビリヤード場がここにあった。

思う存分に街を歩き懐かしみ、思う存分に飲んで語り合った。
還暦が近くなると、こういう事がしたくなるんだな。
『還暦』とはよく言ったものだ。
『ヒデキ、還暦!』←どうしても言いたい…

Aが卒業式の日の写真をデータでくれた。こういうのを用意しているのがAなのだ。Aは別れ際に自作の4×5カメラで写真も撮ってくれた。私も写真が好きだということに関して自信があるけれどAには負ける。Gはカメラを持ってこなかった。スマホだけだ。これはこれで職業カメラマンとして実直な姿である。

1988年3月。日大の卒業式は武道館だ。入学式と卒業式が武道館で、運動会が国立競技場だった。マンモス大学恐るべし。まあニチゲーの学生は自分たちが日大生だという意識はなかったが。卒業式はまず日本大学として武道館。芸術学部として大講堂。写真学科として学食。そして各ゼミごとに先生が懇意にしている居酒屋など。と細分化していった。この写真は写真学科として学食に行く前かその後だったと思う。

背広(この当時はスーツなんて言わない)を着ている人。「そんなの絶対に着てたまるか」という人。あの当時のそれぞれの性格を思い出す。「あの頃の朝日はこうだったよな!」とAは言った。せっかくなので、どれが誰なのか分からないように、苗字のイニシャルで順不同に語ってみよう。すでにあの世に旅立った奴が3人もいるので、私なりの鎮魂歌だ!生きている奴らにしても、もう会えないかもしれないので思いを込めよう。

いくぞー!

まず死んだ人から。

何度も書いている大親友のM。福岡県出身。55歳で大動脈解離で突然死。映画学科を2度落ちて写真学科に来た。詳細は省く。彼のペンタックスLXとキヤノンNewF-1は私の手元で生き続けている。彼が亡くなってから彼のご両親とのお付き合いが始まった。

同じ木村ゼミだったT。青森県出身で青森の寒立馬をテーマに撮影していた。カメラはキヤノン。物静かで酒が飲めず、Jeepに毛布と機材を積み込んで撮ったその卒業制作は、写真学科のトップ3に入る芸術学部賞を受賞した。中村橋に住んでいて、私が泊まりに行って教授のモノマネをすると大笑いしていた。卒業後は馬と関われる会社に就職した。その後は付き合いもなかったが、30代前半の頃に突然の訃報。あくまで推測だが自死だったらしい。

入学して最初に仲良しになったN。カメラはニコンF3とニコノスⅤとマミヤRB。彼についてもインスタなどで何度も書いた。人懐こくて優しい彼は、田舎出身の私をよく実家に呼んでご馳走してくれた。スタジオに就職して激務ののちに、27歳で風邪をひいて喘息の発作で急死。今で言う過労死だったと思う。私はNの死を受け入れられず葬式にも出なかったが、数十年が経ちNが夢に出てきた。カレンダーを見るとその日から彼が死んだ12月だった。たまらずお母さんに電話し当時の不義理を詫びた。それ以来、ご両親とのお付き合いが続いている。

親よりも先に死んじゃダメだな。

次に生きている(と思われる)人。

岐阜県で3代続く写真館の跡取りのK。岐阜の言葉が抜けず「なんがやK」と呼ばれていた。カメラ好きでありとあらゆるカメラを持っていた。結婚式のスピーチで失敗してすまなかった。子供3人。元気でやっているだろう。よく一緒に中古カメラ店を周ったな。

同じ木村ゼミで建築写真家として有名になっているS。大分県出身。某メーカーのホームページでも紹介されている。出世したな。親友Mの死後に久しぶりに電話した。まっすぐな男だ。カメラは学生時代はエボニー。今はニコンD810(電話した当時)。

岡山県出身のS。同じく親友Mの死後に数十年ぶりに電話した。カメラはミノルタX-700とMDだったかな。卒業後に青年海外協力隊としてアフリカで写真を教え、その後はフィジーやパプアニューギニアでレストランの店長や貿易の仕事をして、現在は故郷で貿易の仕事をしている。とにかく押しの強い奴だった。学生時代のミノルタはフィジーに置いてきちゃったよーと笑い飛ばしていた。

学生時代に写真集団を組んでいたうちのひとりM。群馬県出身。カメラはキヤノンA-1だったかな。シリアスなモノクロ写真を撮らせたらピカイチだった。同級生と会うと皆「Mはどうしてるかなあ」と言う。大学に残っているAでさえ彼の消息は知らない。

別の大学に3年くらいいて嫌になって退学して日芸に来たK(Rさん)。年長なので同級生という感じがしなかった。映像制作会社の社長になり、雑誌「コマーシャルフォト」にも出ている。愛車はフェラーリだ。学生時代からクールな振る舞いをしていた。大学2年生の時、私の地味なモノクロ写真を見て「朝日〜カッコイイ写真撮るなあ」と言った。なんだか意外で嬉しかった。

同じ木村ゼミで広島県出身のY。ニコンF3にモードラMD-4。よく彼のアパートで飲んだなあ。安いウイスキーとサバ缶と魚肉ソーセージだ。悪酔いした思い出!人づてにパソコン専門誌の表紙を撮っていると聞いた。

コニカに就職したH。仕事で大阪に行ったときに会った。30年くらい前かな。ニコンF3に35mmのF1.4だ。現在は付き合いがない。

ほとんど話したことがないS。でも飲み会やこういう記念写真には必ずいた。いつも皆の話を聞いて静かにニコニコ笑っていた。ボンヤリとした印象しかないが、こういう人も貴重なんだよなあ。彼は私のことを覚えているだろうか。

台湾からの留学生R。美男子・金持ち・優しい、と三拍子そろった良い男。義理人情に厚くそして「金持ち喧嘩せず」。おばあちゃんだかが原宿の一等地に不動産を持っていて、そこでパーティーを開いた。なんかスケールが違うなあと思った記憶がある。そして本当のお坊ちゃんって嫌な感じがしないんだということを学んだ。私はその数年後に仕事で台湾に通うことになるのだが、その頃にはRとの付き合いは途絶えていた。

そして私。

後ろに写り込んでいるのは、木村ゼミのH。バイクレースの写真を撮っていた。同じく木村ゼミのK。卒業制作の秘密を教えてくれた。最後にM。かろうじて名前を思い出せた。静かで真面目な印象だ。

以上!


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