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固定電話

家に電話機がなかったころ

昔は固定電話なんて言わなかった。電話は固定されているものだったからだ。電話についての思い出と現状を書いてみよう。

1965年。私は茨城県下館市(現在の筑西市)で生まれた。鉄筋3階建てのアパートが数棟建ち並んでいた。父親同士はすべて会社の同僚だったので社宅だったのだろう。2Kの部屋には最低限の家電と家具以外は何もなく、正に衣食住だけの生活だった。

電話もなかった。アパートの前に、薄暗い外灯に照らされた電話ボックスがひとつだけあった。両親の実家は両方とも日立市だ。用事があるとそこに行って電話をかける。これは記憶があいまいなのだが、向こうから電話が入ると敷地内に「○号館○○号室の朝日さん、お電話です」という放送が入った。階段を下りてその公衆電話の受話器を取ると、交換手が出て取り次いでくれたと思う。どうやって本人確認をしたのだろう。

もちろん自室に電話を引いている人もたくさんいた。我が家は家を建てるために節約をしていて、電話を引いたのは遅かった。1970年代初頭に、白黒テレビからカラーテレビに替えた。その頃に黒電話があったような気もするが、記憶がない。

黒電話のころ

1975年。茨城県日立市に家を新築する。当然最初から電話があった。夢にまで見た文化的生活の始まりだ。電話はダイヤル式の黒電話である。それは引き出しのある電話台の上に鎮座していた。花柄かチェックのカバーが懐かしい。

黒電話時代の話は、昭和を知る人が「思春期は大変だった」と得意げに語っている。そういう時代だった。電話はテレビのある一家団欒の部屋に1台だけ。コードレスホンとか子機とかそんなものはない。

1980年。中学3年生。クラスの女子と電話で話していて予想外に長くなってしまい、テレビの「欽どこ」が始まった。萩本欽ちゃんのギャグに母親が大爆笑し、彼女「いまの何?凄いね!」私「あーいや、いま欽どこ見てるから」と会話が途切れたのを思い出す。

3歳上の姉が彼氏と電話していると、父親が途端に不機嫌になり、読みもしない新聞をガサガサガサガサとやり出し、「エヘンエヘン」と咳払いをするのであった。

またしても電話がない生活へ

1984年。大学に進学して上京する。母親が持たせてくれたのは、衣類や布団や食器など身の回りの品と、机と本棚などだけ。新たに購入したのは炊飯器くらいだった。洗濯機と冷蔵庫はこっちから持っていくよりも秋葉原で買った方が良かろう、とお金をくれた。言葉にはしなかったが、まずは「衣食住」をしっかりやれという意味だった。

ここで説明が必要になるが、昔は家電と言えば秋葉原だった。上京してすぐに買いに行った。中学時代の友人Sちゃんが、「東京は、おっかない所だから俺も一緒に行くよ」とついてきた。当時は春先になると秋葉原の駅前は客引きで溢れていた。田舎から上京した若者狙いである。

改札を出るとパーッと客引きが近づいてきて、「お兄さん、何探してるの?」と聞かれる。まるで歌舞伎町のようだった。結局、客引きについて行って洗濯機と冷蔵庫を購入した。今ならヨドバシで簡単に買えるだろう。

そんなわけでまたしても電話のない生活になった。テレビと電話は後回しだった。この頃の学生事情を思い出すと、まず安い方だと家賃18,000前後の4畳半で風呂なしトイレ共同。もう少し良い所だと家賃30,000円前後の6畳のアパート。電話は最初から引く奴もいたが、多くは大家さんちの呼び出しか、あるいは廊下に共同電話があって出られる奴が出るシステムだった。

私はしょっちゅう友達が来ては嫌なので、学校のある駅から30分ほど離れた市部のアパートに住んだ。風呂はないが2Kで33,000円。狭い方の部屋を暗室にした。大家さんは敷地内に住んでいるが、敷地が広く、そもそも呼び出しのシステムはなかった。

ある時は何かの連絡で電報が来た。結婚式などなら分かるが、昭和も終わりなのに普通の家に電報って!ときどき銭湯に行きがてら小銭をたくさん持って、公衆電話から実家に電話をした。テレホンカードなどまだ普及していなかった。

プッシュ式電話機

衣食住に必要なもの以外はアルバイトで揃えていった。大学1年の夏に豊島園で働き、カメラとテレビを買った。電話は大学3年のゴールデンウィークまで待たなければならなかった。

過去に何度も書いたので詳細は省く。1986年の5月に東京サミットがあった。中曽根レーガンのロンヤスサミットである。外資系の通信社で臨時雇いの暗室マンになった。驚くような時給で数日で大金を稼いだ。これでやっと電話を引いたのだ。固定電話を引くには権利を買う必要があり、確か9万円くらいかかった記憶がある。

すでに黒電話ではなくプッシュ式だったが、回線はまだアナログだっただろう。なんの機能も付いていなかったが嬉しかった。中学や高校時代の友人にも連絡したが、「え?03じゃないの?東京じゃないんだっけ?」とみんな一様に口にした。テレビで「東京03〜」という通信販売のCMを聞きなれているので、東京はぜんぶ03だと思っている人が多かった。

留守番電話機

1990年代に入ると間もなく留守番電話機能が当たり前になる。どんな機種を最初に買ったかまでは覚えていないが、1台めは単純な機能のものだった。次にマイクロカセットテープをダブルで装填できるタイプが流行った。どれだけでも録音できる。この頃から応答メッセージに凝る人が多くなった。

飯田橋のギンレイビルに事務所を構えていたHさん。ライターというのか編集というのか、昔はよくいた職業の人。映画館の上階の事務所は昔の探偵事務所のようだった。

私は当時Sさんというライターと事務所を借りていた。SさんはHさんと長い付き合いだった。SさんがHさんに電話をする。

Hさんの留守電はまずピアノの音で始まる。「ポーンポロポーン・・・はい。○○事務所です・・・ポンポロポンポンポーン・・・ただいま・・・ピロピロポーン・・・社員一同、出かけております」。Hさん自慢の一人娘のピアノ演奏とメッセージだ。そこでSさんが「社員一同って、おまえしかいねえだろ!」と突っ込むのがお約束だった。Hさんは個人事業主で誰も雇っていなかったのだ。

写真学科の後輩で、通信社の同僚だったN。彼はレゲエなど音楽が好きでベースを弾いていた。弟と一緒に住んでいて、弟はパーカッションを担当していた。

Nの家に電話をかける。「トントコトコトコトントコトコトコ・・・はい、Nです・・・トコトコトコトコ・・・」。Nの弟が打楽器に乗せて、ダブ・ポエットの朗読詩のようにセリフを入れる。「ただいま・・・トントコトコトコ・・・出かけて・・・トコトコトントコ・・・おります」。なかなか「ピー」と言わない。「あーーーもう面倒くせー、会ったときに話せばいいや」と切ってしまったのだった。

一方、同じ立場で同僚だったUはアッサリした男だった。電話をすると早口で、「ガチャ、Uです、出かけてます、ピー」っと、わずか2秒でピーなので心の準備が出来ずに「あわわわわ」となるのであった。

そのダブルカセットタイプは、もちろん応答メッセージだけでなく、いわゆるメッセージもいくらでも録音できた。ある友人は、私が夜勤の日に酔っぱらってかけてきて、延々と好きな歌を3番まで熱唱していた。母親もまるでその日の日記を朗読するかのように長々と話してたな。

FAX機能付き電話機

そしてFAXの時代になる。FAX自体はもっと以前からあるが会社での業務用途が主で、家庭用にはまだ普及していなかった。1990年代前半。私は自分の仕事のFAXを通信社で受け取っていたが、急な依頼などに対応できなくなった。その後は事務所があったが、確か1995年頃にFAX機能付き電話機を導入。最初はロールの感熱紙を使う物だった。グレーで大型だった。

留守電もテープでなくICになり、60秒以内などの制限ができて上記のような遊びもなくなった。この頃から個人情報保護の観点からも、初期設定の応答メッセージのままにする人が増えた。

ところがロールタイプの用紙は丸まってしまい、バッグのポケットには入れにくく、歩きながら見るのもやりにくかった。しかもすぐに印字が薄くなり保存性も悪い。1998年頃。普通紙タイプに買い替えた。

この時、ちょっと失敗した。最上位機種だとFAXを液晶でプレビュー出来て、印刷せずに捨てることが可能だった。私はその下の機種を買ってしまい、FAXが入ったら印刷しないとランプの点滅が消えないのだった。

シンプルな電話機に戻り、さらには固定電話不要の時代へ

FAXはけっこう間違いが多い。我が家の電話番号は有名ブランドの番号と似ているらしく、商取引の間違いFAXが延々と届いた時期があった。それ以外にも先輩カメラマンの「俺様通信」が定期的に届いたりと迷惑千万だった。インクリボンも高価だ。2000年代も半ばになると仕事でFAXは使わなくなる。しばらく放置したのち、FAX機能のないシンプルな電話機に買い替えた。今から10年くらい前だったか。

こうしてみると沢山の電話機を使ってきた。そして2023年の現在。この固定電話をどうするか。もはや固定電話にかかってくるのは、自分の母親たったひとりだけだ。それは着信全体の10%未満。あとの90%以上は、リサイクルショップなどの営業電話、もしくは何業か分からないが勧誘、あるいは怪しい在宅確認の電話。それとテープによるアンケート調査などばかりである。ネットで調べて即、着信拒否に設定するがキリがない。

私の母は全盲だ。電話番号はすべて記憶の中にある。実家は最後の最後まで黒電話だった。ダイヤルの穴を指で数えられるのであれが一番良かったそうだ。今ではプッシュ式だが、タッチパネルのスマホなどは使えない。音声でかけるタイプのものも一時期導入したが使いにくかったらしい。

もちろん私の携帯番号を教えれば良いのだが、高齢の母に記憶を更新させるのは心苦しい。よって固定電話は母が亡くなるまで置いておくことになるだろう。87歳の今も元気でまだまだ死にそうにない(笑)ので、当分はこのままだ。そうなったら考えよう。

今どきの一人暮らしの若い人は固定電話など持たないと聞く。少し前までは固定電話がないと信用されないとか、大きな買い物がしにくいとか言われたが、もはやそんなこともないだろう。権利を手放しても当時の金が戻ってくるわけではないそうだが、月々多少は節約になるだろうか。あとは銀行などへの届け出が面倒なだけかな。

以上。長々と書いた。
電話機の歴史の貴重な証言になっただろうか。


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