10 不平等ななかでの平等な意思決定

これはずっと気になっていたけど、誰かを傷つけたり、嫌な気持ちにさせる可能性もあると思ってずっと書けなかった。そんな意図はないんですと言ったところで意味はないし、自分のために書くとはいえ世界に離している以上、誰かに読まれると不都合な文章にはしたくなかった。かといって、非公開で出したり下書きにしておくのも嫌だった。それは何度か試したことがあるけれど、離している実感が得られなくて、それは今やりたいことではないからだ。

それでも書き始める前にあれこれ考えていたら、なんだか通っていけそうな道を見つけた感覚がある。自分も納得できるくらいちゃんと書いて離して、それでいて痛みのあまり無い文章になりそうだから書いてみる。

と、前置きがだいぶ長くなったので、もうそろそろ始めてみる。それは男性が子どもを持ちたいと思うことってどうなんだろうという問い。はっきり言って妊娠から出産まで女性が担うものが大きすぎるし、男性が担うものは小さすぎる。産後もやっぱり大変すぎる。自分が語るその大変さの詳細は、どうやっても詳細にはなり得ないので書かないけれど、どう考えても大変だ。

それを踏まえて、「子どもが欲しい」と願うことは、つまり女性にそれを担ってほしいということになる。そんなことを自分は言っていい、願っていいのだろうかと思っていた。そして逆に言えば、女性が子どもを欲しいと言ったとき、その荷を背負う覚悟をした人に向かって、いや自分は欲しくないと言っていいのだろうかという気持ちでもある。自分のなかでこれという答えはない。当然、人の数だけ、関係性の数だけそれぞれの答えや応えがあるんだろう。

もう少し正確に意味を探ると、欲しいも欲しくないも何かを思うことは止められないけれど、それを要求すること、あるいは意思決定の場で優先的に取り扱われるべき意見として認識していいのかな、という問いがある。そう、自分が気になっているのは言っていいか思っていいか、という単純な良し悪しではなくて、間違いなく片側にものすごい負荷がかかったり、あるいは時間的な制約があるという不平等感があるなかで、その場合の平等な意思決定は何なんだろう、ということだなと思った。つまり平等に関する問いだったのか。

子どもが無事に産まれてくれたとして、そのまま元気に育っていけばものすごく長い付き合いになる。産後すぐにでも、その気になれば男性側が育児の一切を担うこともできる。ジェンダー格差の激しい日本でも、ほんとうに少しずつではあるものの、そういう差分は減ってきている気はしなくもない。こんな田舎に住んでいても、その片鱗を感じたりはする。そうやって、時間を引き伸ばして考えると、妊娠出産の10ヶ月は相対的に短い時間になるかもしれない。とはいえ、そんな考えは無意味である。その大変さ、そして本当に命を失いうるレベルのリスクを背負う重荷の前に、それを担うことのない自分が言えることは何もない。

抜け落ちている視点がたくさんあるだろうなとは思う。とんでもなくおかしな話をしてるのかもしれない。でもひとまず自分の問いの核心に向かってきたような感覚はある。倫理的になのか、政治的になのか、何的かもわからないけど、自分が完璧で素晴らしく最先端にいるとは思っておらず、むしろ至らないことばかりだ。ただ少なくとも今よりマシになっていきたいと願ってる。そのために書いて考えてみたかった。誰にとっても納得できる、というわけではないだろうけど、いい意思決定って何なんだろうなということ。

川上未映子の「夏物語」には、AID(非配偶者間人工授精)に触れて、子どもをつくるのに男の性欲にかかわる必要はない。必要なのは女の意志だけだ。いい時代になった、といった表現があった。ほんとうにそうなのか、自分にはもちろんわからない。ただ目を背けることのできない問いだなと、心に重く残る小説だった。

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