13 小さい本屋、推し、冬文庫

先週、松江にできた本屋さんに行ってきた。タイミングがあえばすぐに行っちゃうタイプだ。生まれたての本屋さんの新鮮な空気がそこにはあって、いいなぁとじんわりきた。実際その瞬間は息子がニャーニャーしていたから、後で振り返って噛み締めた。自分がしたい遠出の半分は小さい本屋さんだと思う。みんな個性があって、知らない本がいっぱいあって、とにかくいいなぁって思う。

仲間と一緒に雑誌をつくっていたことがあって、当時の独立系書店さんはわりと知っていた気がする。最後に発行してから10年近く経って(まじか)、実際の数は知らないまま適当に言うけど、その間に小さい本屋さんはすごく増えた。体感的に。本屋さんの本をたまに読むけれど、知らない本屋さんがいっぱいある。うれしい反面、今はそんなにフットワーク軽く動けないし、だいたい都市部だったりもするから、巡ってみたい!とは思わなくなってしまった。これが老いだろうか。

でも近場だったらぜひ行きたいし、遠くても行ってみたい本屋さんはもちろんある。例えば庭文庫さんにはいつか行きたい、東京の百年にも、先方はもう覚えていないだろうけど自分にはとても思い出深い本屋さんだからまた行きたい。

本屋さんが好きだから、できればいいお客さんになりたい。それが何かはわからないけど、あまり多くはないつかえるお金を工面して毎年いろいろな本を買っている。普通かもしれないけど、行ったら必ず何かを買うと決めている。あとはオンラインもあるし、知り合いであれば欲しい本を取り寄せてもらったりもする。自分が富豪だったら本屋さんに間違いなくお金を出すのにな。というか富豪が小さい本屋さんにものすごい出資をしたって聞かない。まぁ小さい農家への出資も聞いたことがないか。あるのかな。あと、そう、推しってこういう気持ちなのかなって初めて気がついた。

でも読む本すべてを買うことはいまは難しいから、図書館でもすごい借りている。読んでみてすごくよかったら後で買う、という動きもある。図書館は図書館でいい利用者になりたい。

本が好きだから、本に関わりたいとずっと思っている。でも自分には書くことはできないし、書けたとして例えばそれをまとめて出版することは難しい。いやまぁできるにはできる。本当にできないと思っているのは、それをちゃんと売ること、あるいは売れるようなものを書くこと。出版にはお金がかかる。書いたり、写真を撮ったり、取材費に、イラスト、デザイン、印刷、などなど。安くても数十万とかかな。自分がやるなら文字だけだろうけど、それでもそれなりにかかるはず。趣味にはちょっと厳しい。

禾の冬の仕事として本に関わることを何度も考えたことがある。やってみたいことはある。自分が書きたいというより、聞いてみたい話があり会ってみたい人がいる、もっと深く考えてみたいことがある。というか基本的にはそれだけで、発信したいとかは無く、形にするのはやっぱり口実だ。誰かの役には立てると思うけど、役に立ちたくてやるわけではない。それを言うなら農業も自分がやりたいからやってるだけで、誰かにとって食べたいと思えるいいものがつくれて、このまま農業を続けられたらうれしいなという順番が正直なところ。どこまでいっても自分はそればかりだ。だからそれって他の人が読んでも面白いのかとか、お金のことをどうしても考えてしまって、そこに踏み込む自信がないまま5年が経った。

と言いつつも、それはあくまでマジョリティである自分にとってはであって、周りを見たり、子どものことを思えば、やっぱり社会において変わってほしい側面もいくらでもある。そういうことに触れずして自立した大人であれるのか、という疑問は常にある。社会に物申さずに、粛々とものづくりをする職人像がウケはいいのかもしれないけれど、自分にはできそうもない。それには、自分はあまりに怒りがあり過ぎるんだろうな。

でもその前にこの冬は鶏小屋を建てなきゃだし、家もどうにかしていきたい。とにかく時間とお金とエネルギーが足りていないのだけど、それはつまり、やりたい気持ちや優先度もまぁその程度なんだということでもある。悲しいけれど。今はどうしても農業と子どもたちで手一杯だし、幼子たちとの暮らしは何かあったらすぐに全てがストップするので意図的に余裕を持っておかないといけない。そんな気持ちからどうしてもコンサバティブになる。良くないけどね。あと相談相手がいないのも腰が引ける要因だ。でもこういう本に関わる活動を、やるなら冬にだけだから「冬文庫」とかシンプルできれいな言葉だなって思ってる。禾では基本的にやってないことを口にはしないけど、この場ではいいかなと思って好きに書いてみた。どうしたものかなぁとは思ってる。

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