17 くんくん、なにー?と応えるお店、人生のピーク

息子はぼくを「くんくん」と呼んでいる。彼が喋り始めてからほとんどずっとだ。もともとぼくが妻を「あっちゃん」と呼び、妻がぼくを「りょうくん」と呼んでいる(温子と亮一だから)。それを見つづけてきた幼い我が子はある日、言った。「ちゃんちゃん!くんくん!」と。

「ちゃん」と「くん」という、本来は無用であり個性も意味もない方をあえて選び、それを二度繰り返すことで新しい言葉として生み出す。そんな彼のクリエイティブにぼくは心底驚いた。あとシンプルにかわいい。そんな名前をつけてもらえてうれしかった。

恥ずかしくなったのか「ちゃんちゃん」は一年くらいで消えて、今では「あっちゃん」と呼んでいる。自分だったら切なくて泣いちゃいそうだけど、妻は気にしていない様子だ。ちょっと信じられないな。ぼくはずっと「くんくん」がいい。ちなみに仲の良い保育園の先生にも、息子の友だちにもぼくはくんくんと呼ばれている。それだけいろいろな人に呼ばれ続けていると、「くんくん」には一つの人格があるような気がしてくる。一応「父」っぽいんだけど、もうちょっと軽い感じの「くんくん」。自分でも何を言っているのかわからないけど、自分は演者であり、くんくんというやつが確かに存在する気がする。

彼が言葉を発してから、無数のおもしろくてかわいい言葉が生まれては消えていった。もう思い出すこともできない。どこかに記録しておくべきだとわかっていたのに、面倒くさくてできなかった。一生の宝物になったはずなのに。今もし小さなお子を持つ方がいたらぜひオススメしたいし、よかったらシェアしてほしい。ぼくは自分の子どももかわいくていくらでも彼らの話をしたいけど、よそのお子もかわいいし彼らの話を聞くのも大好きだ。外で小さい子どもと目があうと手を振りたくなるけど、いくらくんくんとは言え、この村を一歩出ればただのおじさんだから気をつけたほうがいい。


最近、息子とお店屋さんごっこをした。すみませーんとお店に入るぼくに向かって、なにー?と応えてくれる店員さん(4歳)。絶対間違いじゃないんだけど、絶対言われない応答にめちゃくちゃ笑ってしまった。いらっしゃいませー!じゃなくて、なにー?って言ってくれるお店があったらぜひ通いたい。唐突だけど、すごい好きだったからここぞとばかりに残しておく。


今が人生のピークなんじゃないかとわりと思う。以前もどこかで書いたけど、子どもは小さく仕事は駆け出しでままならない今が、もっと歳を重ねたときに一番愛おしく思い出す時間なんじゃないかなと。地域の先輩パパママたちにも、まじで大変だと思うけどとにかく今を大切にしてほしいと常々アドバイスをいただく。それに特別に良くされている感覚もある。子連れでローソンに行けば、アイスを買うだけで店員さんたちもにこやかに手を振ってくれる。集落のおばあちゃんにジュースをもらい、農機具屋さんでもお菓子をもらう。自分ひとりだったら生まれなかったあたたかい関係性がたくさんある。確かに自分が子どもを支えてはいるけれど、現時点で既にほんとうに支えられてもいる。ニャーニャーしている子どもを抱っこしているだけで、自分はここにいていいのかもしれないと思えてしまったりもする。

でも子どもを大事にはするけど、重きを置きすぎないほうがいい。依存になっちゃうから。過度になると子離れできなくなるし、子どもをある種の所有物のように感じたり、人生のなにかを子どものせいにしてしまいかねない。それはやっぱり失礼だし関係悪化にもつながると思う。彼らは彼らで独立した存在であり、自分は今このときを一緒に過ごして大切に関わらせていただいているのだ、くらいがいい。だからできる範囲で大人は大人で楽しく自由に生きることも大切だと思う。実際ヒーヒーしているのだけど、それが過ぎると子どもに呪いをかけてしまう。自分も両親がかつての叶えられなかった夢をぽろっと話してくれたときに、やればいいじゃん!てか、やってよ!と思ったことがある。

それに子どもがいなかったらいなかったで、それはそれで楽しく過ごしているとは思う。それに子どもたちはいつか家を出る。今ほんとにこの瞬間だけだ。東京時代に友人とのシェアハウスで、昔観そびれたものを観る会として、宇宙戦艦ヤマトとかX FILEとかを観ていた時期がある。広島にいたころは、年末年始に妻とふたりでコタツでゴロゴロしながらずっとスターウォーズを観ていた。それもやっぱり愛おしい日々だったといま心から思う。忘れん坊将軍のぼくはもう鮮明に思い出すことはできないけれど、いつだって今がピークなのかもしれない。そして、これから先に妻とふたりでだらだら過ごせる休日や夜を思うと、それはそれでけっこう楽しそうだ。

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