09 じっちゃん、気流の鳴る音

昨夜、大学時代の友人であるじっちゃんと話した。前回会ったのは2016年らしい。でもそんな感じが全くしない仲間のような友人だ。

じっちゃんは自分がかつて憧れていたグローバルな生き方をしている。大学を出てからインドに4年、日本にすこし、それからスイスにいって、インドにまた行って、そして来週からはインドネシアに行くという。じっちゃんの話は刺激的だし、彼が見ていること関心を向けて意見を持っていること、最近でいえばイスラエルやハマスのことだったり、世界に広くちゃんと接続している感じが、そのすべてが、あぁ〜こういう大人になりたいなって学生時代に考えていたことだ。

ただ、自分ができたかどうかで言えばきっとできなかったんだと思う。会社を辞めてからイギリスの大学院で学ぼうと少しは準備をするくらいには真剣だったけれど、リアルにいろいろな話を聞いて、きっと自分には不向きだったし、そんな能力もなかったように思える。親しい友人が自分が望んでいたところにいることは、気持ちを託すとかではないけれど、なんというか、自分の嫉妬心や後悔みたいな気持ちをきれいに流してくれる感覚がある。自分にはもう一人、国際舞台でがんばっている親しい人がいるけれど、この二人を心からリスペクトしているし、いつも一番の応援者でありたいと強く願っている。

ただ、昨日話していたら彼は彼でぼくが選んだローカルな生き方、地方移住・専業農家になるという生き方にリスペクトの気持ちを向けてくれていた。これは祭と地元を愛する彼にとって、ありえたかもしれないと真剣に考えたことのあるアナザーライフだったらしい。しかもその時期がお互いちょうど2016年ごろだったらしい。いやまじですごいよほんとにリスペクトだよって言い合う、不思議な夜だった。

たびたび引用する「気流の鳴る音」という本に「人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことへの欲求と、根をもつことの欲求だ。これらをひとつのものとする道はある。それは全世界をふるさととすることだ。この大地、この世界。」といった一節がある。

すごくわかるようで、実感としてはぜんぜんわからない言葉だと思っていた。でも布団に入ってから、そういう仲間がいることで自己は拡張され、それは叶うのかもしれない。少なくともいまの自分はそんな気分だ。著者の主張とはちがう誤読だけれど、これはこれでいいなと思った。

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