14 キラキラしない農業、違う見方

noteで農業のことは書かないつもりだったけど、他のことを書き続けてると無性に農業についても書きたくなってきた。何がいいかなとぼんやり考えて思いついたのは、農業をキラキラ見せたくないと思っていること。自分でもこの気持ちがよくわかっていないから、書きながら考えてみる。

すぐに思いつくのは農業を消費したくないという気持ち。美しい自然に囲まれてとか、日本の原風景とか。適当に書いたけど、そういうことが自分は苦手だと思う。それらが嘘だとは思ってないけど、表現としてそこにスポットライトを当てるのはちょっと難しい。

まず黄金色の田園が原風景ではないと思ってる。少なくとも江戸時代にはそうではなかったはずだし、それ以前もきっとそんな気がしてる。日本は近代化のタイミングで、それ以前とそれ以降がバチっと切れて、明治くらいにできたものをぼくたちはずっと持っていたような感覚に陥っている気がする。そしてそれは少し危ないと思っていて、だからこんな田園風景という稲の美しさを見せたいときにですら、なんだか不安に気持ちにもなっている。

そして農業、というかお米。それも正確には水田だけど、それは穀物全般がそうであるように歴史的には権力者が民衆を縛りつけるためにもよく機能していたし、政治的な意図が多分に含まれていたものだと思っている。農家の清貧さみたいなものもその一つで、そう見られることは得かもしれないけれど、自分なんかはそれまでの30年間は農家ではなかったし、この5年で急にそうなったかというとそうでもない気がする。農家だけが特別大変な仕事とは思わないけれど、大変ですねとよく言っていただく。みなさんと同じようにぼくも普通だし、種類は違うけれど会社員だって大変だよなぁ、と思う。

だからといって農業の美しさや尊さが消えるわけではない。それは自分も確かに感じるものがある。ただ何という名前かわからないけど、ある種のゲタを履いていて、それは一見農業を尊く見せているんだけど、もしかしたら逆なんじゃないかとも思う。そこに一抹の疑惑がある。そして、そういう過去との接続を感じない言葉には、どこか空虚さを感じてしまう。

それからもう一つは手作業や小ささの美しさ。ここにどう向き合えばいいかは自分もわからない。例えば米をつくるといっても、田植え機、コンバイン、ライスセンターという近代設備よりも、手植え、手刈り、天日干しが美しく見えてしまう。規模を大きくしたり、いわゆる生業としての農業に向き合えば向き合うほどに遠ざかる何かがあり、家庭菜園とか自給自足とか小さく閉じた農の世界であればあるほどにキラリと輝いて見える何かがある。ここを農家はどう見ればいいんだろう。

そんなものは食を支えるものではない。プロとはこういうものだと言い切るのは正しい。しかし一方で、そこにこぼれ落ちるものをこそ、本質的に人が求めているとしたら、農業のあり方のヒントがあるかもしれないと個人的には思う。江戸時代のように皆が農家になるべきとは全く思わないけれど、どうしたってよく感じてしまう農の世界に、専業農家だからこそ魅せられるものはないのかなとか不思議に思う。作物を市場に出すことは尊いし、それで十分かもしれないけれどさ。

このあたりは小ささの魅力というカテゴリーを自分は持っていて、それは農でもパンでも器でもそう。サイズが違えば別物なんですと言えば終わりだけど、そこには何かがありそうだなぁという気がしている。

農家の仕事は土地に関連する。比喩ではなく、現実的に農地が農地であることには意味があり、そこには作物の生産に限らず、生き物を維持するとか山や川を維持するとか、あるいは川下を守るとか、具体的な意味があると思う。それは都市部に住んでいたらわからないし、自分も東京にいた時には考えたこともなかった。けれど川や大地はほんとうの意味で繋がっている。農業には何かもっと違う見方があるような気がしてならない。

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