12 自分の時間がない、時間感覚、小さな発見

自分の時間がないことが育児の難しさの最たるものの一つだと思う。年齢にも個性にもよるだろうから、自分の一体験だけど。

とにかく一緒にいなきゃいけない。一緒に「いる」だけではいけなくて、なにか遊んでいる。ブロックをしたり、車のおもちゃを走らせたり、絵本を読んだり、散歩をしたり。自分もほんとうに楽しめるものもあるけれど、これ何すかね、、?と思うものも多い。仕方ない。彼は4歳で、自分は36歳だ。夢中になれない自分をいかんいかん!と思ってた時期もあったけど、いやシンプルに無理があるなと考えてから、気が楽になった。そのギャップを埋める必要はない気がする。

それから、行ける場所や参加できるものも限られる。展示も、好きな本屋さんも、落ち着いてゆっくりと過ごすことは難しい。オンラインでイベントがあっても休日なら日中に見れるわけもない。ずっと気になっていたジグシアターに行くのに3年かかったのもそれが理由だ。もちろん子どものせいというより、自分のキャラや考え方とか、そういう複合的なものだ。

日々を流さないで味わって生きるべきだと人は言う。その通りだとは思うけれど、時間だけが解決することもあり、それを待たないといけないこともある。その意味で育児と農業はよく似ている。そのときに、自分は寄り添っていくという関わり方をしたいと思う。そこではある種の自分は死んでいる。でも同時に、文字通り自分の命よりも絶対的に大切なものを持つことで、エゴみたいなものも減った気がする。

この前、休日の午後に会った友人に、このあとの予定は?と聞かれて、いやなんにもないよ。ただ子どもと一緒にいて時間が過ぎるのを待つだけと答えた。笑っていた。いや苦笑いだったのかな。わからない。夢のある話ではないけれど正直なことを言った。子どもと一緒のとき、大人の都合で何かをやろうとすると、ハードルも高いしストレスもかかる。それは自分にも子どもにもだ。だからもう何も達成する必要はないようにしておいた方がいい、というのが育児で学んだ精神安定スキルだ。となると、特にどうこうもなくゆるやかに、できれば楽しく、一緒に時間を流していこうねという気持ちになる。

自営業で、しかもお店とかじゃなくて農家なので、本来はすべてが自由だ。曜日も時間も関係ない。むしろ原始的な時間感覚ともいえる、日が出ているか出ていないかとか、晴れか雨かとか、春夏秋冬とか、そういう自然の時間軸にあわせて生きるほうがどう考えても理にかなっている。農家にとって夏の4時半と冬の4時半は意味合いが全く違うし、春の晴れ日と春の雨の日も違うのだ。でもそんなことは関係なくなって、すべての時間が平日か休日か、あるいは8時半から17時までかそれ以外の時間か、つまり子どもと一緒か一緒でないかになる。それはつまり保育園の時間であり、一般的な社会の時間感覚にバチッとはまる。休日に混み合うイオンモールにも行きたくなるし、そのありがたみをしみじみ感じる。ちなみに自分のやっている農業で一番むずかしい要素は、この2つの異なる時間感覚のズレだとも思う。

子どものときの体験は大人になったら忘れるという。それは半分正しい。自分もほぼ全てを忘れている。半分間違いなのは、4歳とはいえ今日のことはさすがに覚えている。昨日のことも。旅行とか運動会とか大きなイベントだったら5歳になっても覚えているだろう。5歳のときのことは6歳でも、、みたいに数珠繫ぎになっている。だから、そういう意味で覚えている、みたいなことを妻が何かで読んだと教えてくれて、なるほどな〜と関心した。今日何をしたとかは忘れるけど、今日一緒になにか楽しく過ごしたとかは、明日も一緒に過ごしたいなとか過ごしてもいいなとかになる。ある種の関係性の話なのかな。それがずっと繋がっている。だから日々を一緒に楽しく過ごしていって、そういう体験の積み重ねの上に10歳になっても20歳になっても、いい関係でいられたらそれはすごいことだなって思う。

あともう一つは、先に書いてたお互いの好みの違いも、同じように楽しいばかりじゃないかもだけど、そこに自分なりの発見や新しさは確かにある。子どもを持った途端、レットサラマンダーやドクターイエローの存在感に衝撃を受けた。それまでの30年間はどこにもいなかったのに、親になったら全員が知ってる気がする。それに子どもが日々やっている新しい取り組みや、発してみる言葉にいつも驚くし、そういう小さなものを逃さず見つけたいし、そうやって楽しんでいくことはできそうだなと思う。

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