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「写真」という言葉について

ツイッターなどのSNSを利用していると、定期的に「学級会」と呼ばれる問題提起と自己解釈の壁打ちがタイムライン上に発生する場面に遭遇します。写真というジャンルに片足でも突っ込んでいると写真がテーマの学級会の遭遇率が自然と高くなります。

一時期、自分の体感でおそらく3から4年前くらい前のツイッターで流行っていたのが「写真は真実を写すと書くが真実なんて写らない。あるのは光の情報だ。だから自分は光で描くphotographを選ぶ」というもの。

その考えを否定する気もなければ光で描くphotographの考え方は確かにその通りと思っていましたが、同時に日本語の「写真」「写真家」という言葉を陳腐化し、かっこいい横文字を使いたいという下心が見えたような気がして好きになれませんでした。もちろん写真では表現しきれないニュアンスをphotographという言葉に求めたのだと思いますが。

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そもそもの意味をたどると「真」は姿を表すようです。「姿(真)」を「写す」から写真。同じく、影も姿を表す意味を持ちます。「姿(影)」を「写し取る(撮)」から撮影。ちなみに「写真」という言葉自体は中国の中世くらいまで遡れるようです。真が指すところの姿には肖像(特に高貴な身分の)の意味があったことから、特に肖像写真(ポートレート)を撮影する事が写真だったようです。中国語で「写真」を検索すると「肖像を描く」「ありのままに書く」「実際の状態を描く」「肖像画」という意味が出てきます。

ちなみに中国語で写真を意味するのは「照片」で、照は「照らす」「(姿を)写す」「撮影する」の意味。片は「フィルム」「風景」「(一面の)空間」「ありさま」などを指すようです。多角的によく写真を表していると思いました。特に面白いのが片には「心情」という意味もあるようで、心情を撮るという一面もそこから伺えそうです。

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というわけで、写真は「真実を写す」ものから始まっていない、という話でした。そこがスタート地点ではないだけで、個人のミッションとして「写真を通して真実となる何かを写し取ろう」という試みは誰に妨げられるものではないですし、陳腐かされるものでもないですし、自分の範囲を超えて誰かに強要するものでもないと思います。また、漢字が持つ複数の意味合いが言葉の含みや余韻、解釈の広がりを助けてくれます。「光学的記録でしかないよ」と斜に構えなくてもいいのかもしれません。

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例えば絵画とは違い、写真は多重露光などの例外をのぞけば撮影したその場にその風景、光景があり、あるいは人物が居たはずです。その場面を撮ったのが偶然か意図的かに寄らず、その記録は撮影者に紐付けられ、程度のちがいはあったとしても意味合いが含まれます。意図としてその時の感動や感情を思い起こすためのものであれば、それは写心と書いてもいいのかもしれません。





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