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「写真」を撮るということについて

前回のnoteで「写真」の「真」は真実を指してるわけじゃないよ、という事を書きました。

基本的に自身の考え方の中で一番腑に落ちる言葉を選べばいいと思います。それが光画であったりphotographであったり写真であったり写心であったり。状況に合わせた組み合わせだったり。その言葉を選ぶに至る自身の思考の過程が反映されているといいのかな、と思います。

で、今回。写真を撮るという事についてです。

誰かが写真を撮る時、必ず2つの要素が存在します。撮る人と被写体です。被写体についてはそれが人であるかモノであるか、風景であるか、それともそれらではない何かであるか様々ですが、それでも撮られる対象があります。もう一方は「誰かが」と前置きをしている通り、「誰か」が存在します。私であったり、あなたであったり、もしくは彼らかもしれません。

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誰かが写真を撮るとき、少なくともシャッターを切ると判断した人とカメラの前の光景が存在します。誰かがシャッターを切ると、カメラは指定した時間だけシャッターを開き、フィルムやセンサーを利用して光を記録します。記録した光の情報は必要な処理を施され写真としてプリントされたり画面で見ることができるようになります。

写真を撮るとき、すくなくともシャッターを切るという判断と、記録すると判断した光景があるということになります。判断したのは写真を撮る「誰か」です。

彼、彼女、わたし、あるいはあなたはシャッターを切る判断をしました。もちろん全くの偶然や機会の故障でシャッターが切れてしまったものもあると思いますが、ここでは蛇足になるので触れないことにします。

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シャッターを意図して切ったということは、その理由があるはずです。漠然と良かった、撮りたい瞬間が来た、撮りたいものが眼前にある、様々な理由があって、写真におさめるべきと思ったはずです。つまり、全くの偶然でない限りは写真には何かしらの意図がある。それが上手に言語化できるかは別として、確かに意図があるのだと思います。写真として記録できるのはレンズの画角の範囲、フィルムやセンサーの範囲、光の強さ、機械の性能の範囲に寄ります。それらをシャッターを切る人がコントロールできる範囲で調整して写真として記録したはずです。意図と実際に撮った写真とに乖離があることは当然あるでしょう。技術や知識、経験の影響を大きく受けます。

なぜその人はそれを撮ったのでしょうか? その理由をちょっとしつこく辿っていくと、その人の人生や背景に触れていくことになると思います。同じ場所、同じ時間、同じ対象を撮った2枚の写真があったとしても、その2枚の写真は見た目は同じでも全く違った意味を持つ写真になる、ということがおこります。第三者がその写真を見ても全く同じものに見えるかもしれません。写真を撮った背景は写真には映りません。でも、ある一面では、「写真を撮る」ということは写真を撮るに至った背景と同義なのではないか、と思います。

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