放送大学 グローバル経済史('18) メモ14 20世紀後半の展開

インドの最近の情勢がまとまっててありがたい

シラバス

放送大学 授業科目案内 グローバル経済史('18)
https://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H30/kyouyou/C/syakai/1639609.html
グローバル経済史(’18)

14 20世紀後半の展開

アジアとアフリカの多くの植民地が独立し国民経済建設に進んだが、米ソ冷戦のため政治的には厳しい時代であった。

インドでは18世紀半ば以降にはイギリスの工業製品の市場として輸入超過となり、植民地支配が続いていたが第一次大戦の影響でイギリス製造業が不調に陥ると、インド国内の製造業を育成する方針に転換した。1911年には現在に続くタタ財閥が大規模な製鉄所をジャムシェドプルに建設し、ジュート産業においては1917年に工場建設、1926年にはビルラ財閥がカルカッタにインド商工会議所を設立、ロンドンジュート協会の初のインド人会員となり、1928年にはロンドンの取引所でインド人排除を撤廃させた。これ以降、インド経済界とイギリス利権を維持しようとする勢力とで対立が続いていく。

法政大学絵所秀紀先生インタビュー。1950年代には「開発経済論」が政策に強い影響力を持った。構造主義アプローチとは欧米とアジアでは経済の構造が異なっているので同じ経済発展のモデルは当てはまらないとするものである。インドではネルー=マハラノビス開発戦略により1.輸入代替工業化(i.e., 国産化)の推進、2.計画経済化、3.規制の強化などが推進された。印パ、米印対立の影響でソ連に近づき経済活動への規制と閉鎖性を強めた。経済発展の速度は遅く、特に輸入代替工業化では外貨を獲得できず援助頼みであった。これは韓国や台湾で労働集約産業(e.g., アパレル)が輸出に転換し経済成長を実現したのとは対照的である。1970年代には石油ショック、少雨とインディラの投獄などの混乱でインフレが発生した。これをもって構造主義アプローチは失敗とされる。転換点となったのは「緑の革命」で食料輸入国から輸出国へ転換したこと、湾岸諸国の出稼ぎ労働者からの送金である。1980年代インディラとラジブ・ガンジー政権では自動車やソフトウェアなど一部の産業で規制緩和が行われスズキ・マルチのような外資の進出もあった。この頃大規模な国債と外国銀行からの借り入れで大規模な公共投資が行われ経済成長があったが1990年には湾岸戦争を引き金として通貨危機に陥った他、暗殺など政治的混乱があった。1990年代以降、ラオ政権による本格的な経済自由化がすすめられ、高度経済成長期に入っている。この結果は新古典派の成功例とみなす場合もあるが、規制は撤廃しても環境整備の点では依然として政府の役割は大きい。

杉原薫先生インタビュー。1950年の時点でのあらゆる予想を裏切って2010年地域別GDP割合は東アジアが35%で1位、南アジアが10%、とアジア地域のプレゼンスは大きくなっており北米の割合が低下している。特徴はアジア域内貿易が上昇している点で現在は7割を占める。貿易の結合度と成長率にははっきりした相関がある。一方欧米の重要性がなくなったわけではなく、技術革新や新しい経営、制度は現在に至るまで欧米から起こっている。

感想

ジュートってなんじゃと思ったらコウマという植物の繊維だそうで穀物を入れる袋のやつですね・・ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%9E

インドの工業化の始まりは第1次世界大戦後のイギリスの意向とのことで、製鉄のタタって歴史が古いんですね。新興財閥かと思っていました。

その後のインドの悪戦苦闘っぷりは涙を禁じ得ない感じですが、指摘されている構造主義アプローチ、詳しくは分かりませんが理論に振り回された感はあるものの、もちろん理論の方も根拠なしに言っているわけではないので経済学の実践とは難しいものだという印象。現在、規制緩和は新古典派ぽいけれど、政府は依然として旗振り役として大きいという点での差異は重要な指摘ですね。インドのソフトウェア産業ってここで出てくるのかー。

最後の先生は、行間を読むとすると多くの経済予測がアジア地域の経済成長を予測できなかったのは域内貿易の結合度の重要性(ないし実態)を見落としていたから、ということかもしれないですね。

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