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なぜ焚き火に癒やされるのか|週末セルフケア入門

アウトドア動画にハマる

 焚き火を見ると癒やされるのは、なぜでしょうか。なんとなく分かるけど、言葉にしようとすると難しい。自分の経験と、時間という切り口から考えてみたいと思います。

 コロナ禍で外出することが減ってから、動画を見ることが増えました。焚き火、雷雨、波音などの動画がお気に入り。自然音には、没頭を助けてくれる効果があるように感じます。落ち着くし、集中できるのです。

 原始生活の動画にもハマりました。森の中で、木の枝などを使った手仕事だけで家やプールを建築する「プリミティブ・テクノロジー」シリーズが大好き。柔らかい土を掘り、泥をこねる作業を何千回と繰り返し、たった一人の人間が複雑な建造物を作ってしまう。その豪奢とも呼べそうな時間の無駄づかいに、なぜか癒されるのです。

 「癒やされる」は主観的な表現ですが、何億回もの再生数や、様々な言語のコメントを読むかぎり、世界中の人々がアウトドア動画に慰めを見出しているのは間違いなさそうです。α波などの理由もあるだろうし、外出の代わりになっている側面もあると思います。でも、それだけでしょうか。

 友人の誘いで、キャンプで焚き火をする機会がありました。そこで気づいたのは、本物の焚き火には始まりと終わりがあることです。正確には、始まりと中間と終わりがある。薪に火がつき、燃え盛り、炭になって消える。YouTubeなどの焚き火動画には、このような時間の構成がありません。最初から最後まで燃え盛っています。

 この経験をきっかけに、焚き火と時間について考え始めました。焚き火が私を癒やすのは、都市生活とは別の時間のうちにあるからではないか、と思ったのです。つまり、焚き火は一種の「火時計」なのではないか。火時計とは、火がついてから消えるまでの長さで時を計る、きわめて古いタイプの自然時計のことです。

焚き火は私を「動員」しない

 かつて、日時計や水時計、そして火時計などが日常生活で使われていた時代がありました。ほんの数百年前のことです。天体の運行、水の落下、燃焼の速度などに基づいて、昼食や終業の時間を決めていたのです。

 ドイツの文学者エルンスト・ユンガーは、そのユニークな著作『砂時計の書』で、時計を「宇宙的時計」「地球的時計」「人工的時計」に分類しています。日時計は太陽光によるから宇宙的。水時計、火時計、花時計、そして砂時計などは、地球の重力あるいは元素(エレメント)によるから地球的。機械時計は言うまでもなく人工的です。

(余談ですが、この分類でいくと、原子力は宇宙的と言えます。だから「そこにはなにか不気味なもの、人を呆然とさせるものがある」(同書35頁)。)

 ユンガーは、砂時計をはじめとする「地球的時計」を称揚します。「地球は私たちの故郷だから、なんだかホッとするよね」というわけです(同意はしません)。著者はさらに、機械時計は人間の作ったものなので、人間の労働と接続されていると述べます。どういうことかというと、機械時計は人間の労働によって生産された商品であり、人間の労働時間を測定するために使われ、働く時間を告げもするということです。ユンガーは、このような機械時計の力能を「動員 Mobilmachung」という言葉で表現します。つまり、ユンガーは「人間の作った時計は、私たちを動員する」と言っているのです。

 これを敷衍すると、焚き火=火時計に癒やされるのは、私を「動員」しないからだと言えそうです。逆に言えば、それほどまでに、私は動員されている。買え、売れ、起きろ、寝ろ、生きろ、死ね、甦れ――ああもう、勝手にさせてくれ! 時計による支配で思い出すのは、ミヒャエル・エンデの『モモ』。時間どろぼうと戦う彼女を導くのは、とてもゆっくり歩く亀のカシオペイアでした(宇宙的のろさ!)。

 ユンガーは、世界大戦に「総動員」された兵士の死について考え続けた人でした。その思想には危ういところも多いのですが、終章の「わたしたちは重層する時間もしくは時代のなかに生きているのであって、ただ現代のなかにのみ生きているわけではない」(同217頁)という言葉は、示唆に富んでいます。

社会から適切に距離をとる 

 そもそも、なぜ時計は私たちを動員するのでしょうか。それに答えたのが、社会学者である真木悠介の名著『時間の比較社会学』です。著者は、たくさんの人間が一緒に暮らすようになったとき、人工的な時間が必要とされたと分析しています。理由は単純で、みんなが自分の腹時計に従って生きていたら、社会もクソもないからです。「風がふいたら遅刻して 雨がふったらお休みで」(伊藤アキラ作詞)では、世の中回りません。そこで、統一された人工的時間が導入されたわけです。

 時間=暦の管理は、そのときどきの権力者の仕事でした。いまの日本でも、年号の制定が行われています。人工的な時間は、本来バラバラに生き、バラバラに死んでいく私たちを動員する権力なのです。日本人は世界一時間に正確だと言われますが、それは世界一権力に従順であることを意味しています。つまり、時間とは、社会が構築したものである。

 そう考えれば、火時計や水時計が生活の中で使われていた時代には、地球的時計も人々を動員していたはずです。あれだけユンガーが批判していた機械時計も、クォーツ時計やスマホに取って代わられた現代では、むしろ「手仕事が介在しているから温かみがある」と、180度異なる扱いになっています。時代遅れになることで、それらはむしろ反時代的な時間の象徴と見なされるわけです。

 近代社会において、統一的な時間意識は未来志向を強めていきました。だから、奇妙なことに「いま・ここ」を生きることこそが反時代的になるのです。つまり、焚き火をはじめとするセルフケアは、未来から逃れる「いま・ここ」へのエスケイプである。セルフケアは反近代的であると言ってもいいかもしれません。

 もちろん、今さら「自然にかえれ」と言われても困ります。アウトドアはむしろ贅沢。適度に現代的でありながら、ときどきスローライフするくらいが現実的。時間の重層性をふまえれば、時間の無駄についての考え方も変わるでしょう。「じぶん時間」を過ごしているとき、私は社会の時間から離れているのです。それは、無駄だと言われても無駄じゃない。つまり、セルフケアとは、社会から適切に距離をとることなのです。



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