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羽ばたきは世界を震わす・プロアスリート羽生結弦のButterfly effect

 7月19日、羽生結弦のプロアスリート転身を聞いた。挑戦の姿勢を継続しつつ競技を離れるという斬新でいかにも羽生結弦らしい決断を、彼らしい言葉で丁寧に語ってくれた。
 8月に入るとまもなくYouTubeにHANYU YUZURUチャンネルが開設された。これまでSNSなども一切しなかった羽生の1本目の動画、羽生自身による「こちらは羽生結弦公式ユーチューブチャンネルになります」という宣言は破壊的だった。それにもまして心惹かれたのが2本目。「チャンネルのこと」と題してチャンネル登録者への感謝、開設の意図等を説明し、最後に2日後の公開練習イベント「SharePractice」を告知した。話の合間に彼自身のジャンプやスピンの動画がはさまれている。至近距離の低い位置から撮られた完璧な3Aやスクラッチスピン。美しさと迫力に陶然となってしまう。実際には編集でつないでるのかもしれないが、まるで考えながら、滑りながら、心の赴くままに見る者に話しかけているような軽やかな臨場感が素敵だ。新鮮味と洗練度が共存し、次の動画に否応なく期待させてしまう印象的な5分15秒だった。

 そして8月10日、アイスリンク仙台にメディア関係者を招き、ライヴ配信も行われた公開練習「SharePractice」は予想通りの見どころ満載だった。WINNIE THE POOH をセットするところからリンクサイドでのトレーニング、スケート靴に履き替えるところ、氷上でのウォーミングアップ、曲をかけてのスケーティングまで合計2時間程。記者、カメラマン、スタッフを合わせたら100人は超えそうなギャラリーが至近距離で取り囲み、何一つ見逃すまいと目を凝らしている前で、するすると自分の世界に入り込んで集中を高めていく様子はなんだか生身の人ではないみたいだ。肩や腰をパーツごとに動かすアイソレーションのような動きがキレキレで、ダンスの上達ぶりはこのあたりにも理由があるのかもしれない。氷上練習のクライマックスは「SEIMEI」の曲かけ。怖ろしいことに通しで3回、ほぼ休みなく繰り返して見せた。最期は平昌五輪と同じ構成で、当時よりさらに磨かれた大きな動きを見せ、ルッツジャンプのぐらつきもなくノーミスで演技を終えた。

 黒い練習着で完璧なフリーを披露する様子に、私は袴能 はかまのうを連想した。面や装束をつけずに紋付・袴だけの姿で演ずる能である。エアコンのなかった時代の夏などにはよく演じられたようだが、最近はめったに行われないので実は私も絵や写真でしか見たことがない。
 視界を極端に狭める面、動きを束縛する重い装束がない分楽なようでいて、汗もまばたきもそのまま観客に見えてしまうし、通常なら装束で程よく隠される体の線や動きが露わになるのは、演じ手にとって厳しいところでもあるという。身に着けただけで役柄がある程度伝わる面や装束に頼れない袴能は、役者に対しより高い技量を求めるともいえる。
 
 羽生のよく考えられた美しい衣装は、演技を象徴的に仕上げる重要な役割を果たしている。一方で練習着姿は体の線が美しく引き立つし、すべてのプログラムを練習着で見たいとまでいうファンがいるのもうなずける。練習着ながらもSharePracticeでのSEIMEIははっきりと進化を見せつけた最高の演技であった。

 SharePracticeを通して感じたのは、羽生には手に入れたい技や動きが明確に見えていて、それを獲得する意志と計画をもって日々の練習に臨んでいるということだ。進化を求めてプロアスリートを選んだ羽生にとって練習=Practiceは多くのプロスケーターのように「維持する」ためのものではなく「上げていく」ための手段だ。練習を公開する大きな意味のひとつはそうした姿勢を見せることにあり、だからこそこれほどまでに見ごたえがあるのだろう。

 SharePractice以上にすさまじかったのが8月末、恒例となっている「24時間テレビ」で披露した「序奏とロンド・カプリチオーソ」だ。私は2021年全日本選手権での初演を現地観戦する幸運に恵まれた。高難度な技が密度濃く連続する構成の中で、物憂さから滾る情熱までが見事に表されて、正直なところこれ以上はない、フィギュアスケート史上の金字塔のような演技に立ち会ったと感じた。今年2月の北京五輪ではサルコウジャンプの不運なアクシデントに見舞われ、両手を上げてのコンボジャンプなど初演を上回る部分もあったが、点数では下回る結果となっていた。
 「24時間テレビ」での「序奏とロンド・カプリチオーソ」はノーミスで滑り切ったことに加え、上体の動きがますます柔らかく、風に揺れる百合の花のようにしなう腕がスピンを彩り、ツイズルはさらに高速に研ぎ澄まされていた。2021年全日本選手権のロンド・カプリチオーソが透き通るクリスタルであったとしたら、この夏のそれは大粒のバロックパールのように艶めいた深い輝きを放って初演を凌駕し、羽生が未だに進化し続けていることを示した。

 羽生結弦はプロ転向宣言後のひと月と少しの間に、オリンピック2連覇を成し遂げたSEIMEIを超え、完成度と高難度で世界を唸らせたロンド・カプリチオーソの初演も超えてしまった。「今の自分が一番うまい」こと、「まだまだ進化できる」ことを百万言を費やすより鮮やかに証明したと云ってよいだろう。

 YouTubeのチャンネル登録者、閲覧数は伸び続けているし、SharePracticeに参加したメディアは争うように記事や画像を発表し、表紙を飾る雑誌や写真集が次々に発売され、羽生の勢いは止まらない。スポーツ新聞もアーティスティックで巨大な羽生の写真を見開き2ページのぶち抜きで掲載して特集を組むという騒ぎで、「目立つことがすべて」という感じだったレイアウトや掲載写真はこの数年で目に見えて洗練されてきた。これまで男性中心だった読者層が少し変化してきているのかもしれない。私もコンビニで「ここからここまで全部ください!」という大富豪みたいなセリフでスポーツ新聞をコンプリートするという心躍る体験をさせていただいた。

 テレビ局の見せ方も進化した。「24時間テレビ」の終了後まもなく、放送で入っていたナレーションやワイプ等のない「序奏とロンド・カプリチオーソ」がテレビ局公式チャンネルで公開された。しかもアップや引きを取り交ぜた通常バージョンに続けて、終始頭から足元まで全身を入れてノーカット、スイッチングなしのバージョンまで。これを世界に向けて発信してくれた局の意識の持ちよう、撮影したカメラマンのセンスと技量に心から感謝申し上げたい。

 新聞やテレビの変化を見ていて、なんとなく江戸の浮世絵を思い出した。「紙くず絵師」とさげすまれた画家たちによって世に送り出され、当初は価値を認められていなかった浮世絵は、いつしか大衆の愛と熱狂を受けて豪華なコレクションアイテムとなった。やがて海を超え、ヨーロッパのアーティストたちの作風に影響を与えて絵画の歴史に一時代を画し、その余韻は今も続いている。
 羽生にインスパイアされた様々な人々の仕事、作品、思いは連鎖し、共鳴して、今この時にも拡がっていく。繊細な蝶の羽ばたきが地球の裏側に台風を巻き起こすような思いがけない影響力を持つことを「Butterfly effect(バタフライ効果)」と呼ぶそうだ。プロアスリートとしてスタート地点にたった羽生は「ようやくさなぎから羽化して羽を伸ばし始めたところ」と自分を表現した。今まさに飛び立とうとする彼のステージはこれからが本番だ。これまでも常に予想の斜め遥か上を行く姿を見せてきた羽生結弦。その美しい羽が大きくはばたくとき、世界は何を目撃するのだろうか。

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