見出し画像

氷る紅葉は天へのきざはし 龍田姫追想

はじめに

私は企業のウェブサイトや営業ツール、展示会グラフィックなどの企画・コピーライトを生業としています。エネルギー、エンジニアリング、業務システムなどが主戦場なので仕事でエモーショナルな文章を書くことは皆無です。日頃の鬱憤を晴らすべく本能の儘に書いた「鬼たちに捧ぐ」を始め、羽生結弦選手の演技についての文章が思いもかけずたくさんの方にお読みいただく機会に恵まれ幸せなことでした。鑑賞するこころを教わったのは能楽からです。能は決められた形に忠実に、数百年謡い継がれた言葉、節、演奏を守って演じられなければなりません。それでも、あるいはそれだからこそ演じる者によって全く違った舞台になること、能を能たらしめる無駄をそぎ落とし洗練を極めた表現は、フィジカルな鍛錬を尽くした上にこそ成り立つことに気づかせてくれたのは塚田光太郎の舞台でした。

泉下の光太郎に寄せて、忘れがたい秋の能「龍田」について書かせていただきました。

氷る紅葉は天へのきざはし 龍田姫追想

 塚田光太郎の舞台を初めて見たのは「龍田(たつた)」だった。龍田川、龍田山で知られる龍田明神にまつわる能である。光太郎は三十三歳。場所は東中野の梅若能楽堂で、当時、流儀の本舞台がリニューアル工事中だったためにこちらが使われていた。録画設備がなかったのか、こちらで舞った龍田は映像が残っていない。

 舞台は秋、と言っても山はすでに霜枯れて灰色の世界。諸国を巡る聖(ひじり)たちが龍田明神に経を納め参籠するためにやってくる。龍田明神に到る龍田越奈良街道は、飛鳥時代に難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶために拓かれたという古い街道で、いくつかルートがあったそうだ。近代に長大なトンネルを掘削して鉄道が敷設されたが、軟弱地盤のために崩壊して放棄されたというから、もともと地形が変わりやすく難所が多かったのかもしれない。

 そんな心細い晩秋の山道に差し掛かった聖たちが薄氷に覆われた龍田川を渡って社殿を目指そうとしたとき、いさめる声とともに前シテ、龍田明神の巫女に姿を変えた龍田姫が登場する。

 のう、その川を な渡り給いそと 申すべき事の候

揚幕のあたりで放たれた第一声、その

 「のーう」

は、細く、やわらかく、橋掛かりの上で揺蕩い、次の瞬間にはすいーっと伸びて脇正面に座る私の耳をかすめ、えもいわれぬ余韻を振りまいて見所の薄闇に消えた。

 人ならざる者の声。

 大気の振動ではなく、直接脳内に照射されたかのような、迷いも怖れも知らないものだけが発しうる揺るぎのない響き。その衝撃は遥かに時を経た今日も鮮明に耳の奥に残るが、いまだにそれを正しく説明する言葉は見つからない。

 かつてシテ方の世界では、幼いころに入門して子方から舞台を勤めた者でなければ、成長してからいくら修練を積んでも一人前の能楽師として認められなかったという。能の子方、少年が勤める役は「三井寺(みいでら)」の稚児など本来子供である役のほかに「船弁慶(ふなべんけい)」や「安宅(あたか)」の義経、「花筐(はながたみ)」や「国栖(くず)」の天皇など高貴とされる大人の役が多くある。これはシテを引き立てる演出上の都合や、綺麗な子に豪奢な装束を着せて鑑賞する楽しみだけでなく、子方が将来シテ方となって様々な境界を越えた役、幽鬼や妖怪、生霊、天女、妖精、神を演ずるためのメンタルを育てる修練となっていたのではないかと想像する。能の主役は現世に生きている生身の人間はまれであって、ほとんどの場合こうした「人ならざるもの」だ。レーザーもスモークもCGもない舞台でこの世のものでない存在を説得力を持って演じるには鍛錬に加えて、何者かが憑依したかのように辺りを幻惑する技とオーラが求められる。小学校に入ったか入らないかぐらいの年齢の子が、重い装束に縛られ、ともすれば滑り落ちそうにつるつるな床几に腰かけて、時には一時間の余も姿勢を正して構えていなければならない子方の役は尋常な勤めではない。並の人ではない高貴な役、動きや謡は少なくても要となる大事な役を、「お前がしくじればすべてが台無しになる」と言い含められて逃げることも許されずに勤めるうちに、我知らず目覚めてくるものがあるのではないだろうか。芽生えたその「尋常でない何か」と共存しえた時に、人ならざる者を演じる機微が備わるのかもしれない。突き詰めれば狂気にもつながるような危うさを身の内に飼っていなければ境界線を越えた何かを舞台に降ろすことは難しい。五歳で初舞台を踏んだ光太郎の中にも確実にその「何か」が居た。

 そしてこの日、姿を現すか現わさないかというほどの橋掛かりのはずれから光太郎の龍田姫が第一声を放った瞬間、舞台は古代からの霊が依り憑く神域となった。

摺箔(すりはく)の上に扇面と花々を無数に散らした葡萄鼠(ぶどうねず)地の唐織を重ねて着流し、巫女に姿をやつした龍田姫は

「龍田川を渡ることは神と人とのつながりを断ち切ることになる」

と聖たち咎める。聖は

 龍田川 紅葉乱れて 流るめり わたらば錦 なかや絶えなむ

という古歌があることは知っているが、今は紅葉も散り果て、川面には薄氷が張って波もたたない晩秋であるから許させまえ、と通ろうとする。

巫女は重ねて押しとどめ、紅葉の歌は今は詠み人知らずとされているが、実は帝の御製であるし、藤原家隆の

 龍田川 紅葉を閉づる 薄氷 渡らばそれも なかや絶えなん

の歌の通り、薄い氷の下には秋の名残の紅葉が閉じ込められているのだからそれを乱すような心無いことはしないでほしいという。そして自分は龍田明神の巫女であるからと名乗り、代わりの道を案内すると申し出る。

愁いを含みながら威厳のある巫女の言葉に、悪路に難渋していたであろう聖たちは

「あらうれしや」

と従った。

巫女に導かれて龍田明神の社頭にたどり着いた聖たちを迎えたのは霜枯れた外界とは対照的に一本だけ錦を纏ったように色づいた龍田明神の神木であった。

灰色に鎮まる深山に立つ燃えるような紅葉。

暮れ急ぐ秋の夕日を照り返す神々しい姿に聖たちは心打たれる。ここで謡われる

 殊更に此度は 幣取りあへぬをりなるに 

 心して吹け嵐 紅葉を幣の神ごころ

(神前に手向ける幣[ぬさ]も整わないが風に散る紅葉を代わりに供えよう)

という謡には百人一首でも知られる菅原道真の歌

 このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

が隠れている。

 夕闇迫る神域に立った巫女は、その身から光を放ち、「我こそは龍田姫」と名乗ると、くれないの袖を翻して神殿の中へと消えた。

 神威に感じ入り、夜もすがら袖を片敷いて参籠する聖たち。やがて社殿がしきりに鳴動し、有明月の光を浴びて龍田明神=龍田姫があらわれる。愁いをたたえる泣増(なきぞう)の面(おもて)はそのままに、いで立ちは前半の唐織姿から打って変わり、頭上には揺れて煌めく瓔珞(ようらく)で飾られた天冠を戴き、優美に翻る黄金色の長絹(ちょうけん)と緋の大口(おおくち)を纏う。龍田姫は秋津洲(あきつしま)を形作った天沼矛(あめのぬほこ)を守護するという社の来歴を語り、紅葉の葉の形はすなわち鉾の刃先であると告げる。

 あでやかな女神の出現に闇は祓われ、霜枯れていた世界は目の覚めるような錦秋の華やぎに輝く。ひんやりと鎮まり返っていた社は一転して神遊びの場となり、龍田の春秋を詠み込んだ謡、姫の晴れやかな所作とともに舞台は盛り上がってゆく。龍田の景勝を愛でて謡われる

 龍田川 みなとや秋の 泊まりなる

の下りは、紅葉とともに移り行く秋の風情を、川面を流れ流れて河口に寄り集い錦を織りなす散紅葉になぞらえて讃えている。龍田は移り行く秋の最後をまばゆく飾るグランドフィナーレの地なのだ。

この一節は紀貫之の歌

 年ごとに もみぢ葉流す 龍田川 みなとや秋の 泊まりなるらむ

から引かれている。さらに

 今朝よりも 龍田の桜 色ぞ濃き 夕日や花に 時雨なるらん

と謡って春秋を問わぬ龍田の美しさを寿ぐ。山はいつのまにか桜と紅葉が妍を競う桃源郷へと姿を変え、観客は聖たちとともに龍田姫の舞の手に導かれ、神々の戯れる庭へと迷い込む。楽の音、謡う声はいよいよ澄みわたり、舞台は佳境へと登りつめてゆく。

 神楽の始まりを告げる龍田姫の謡い

 久方の月も落ち来る瀧祭り

 細く、遠く、伸びる光太郎のテノールには魔性があった。撓うように耳朶を撫で、鼓膜をとろかし、喉元を熱くさせて心臓へと流れ込み、暴れる鼓動に弾かれて脳髄へと駈け上り、シナプスをショートさせて思考回路を停止させてしまう。

甘やかなシテ謡は、張りつめた笛、金属的なまでに勁い大小の鼓と太鼓の轟きからなる神楽の調べとシャッセし、地謡と掛け合って中空を極彩色に染めてゆく。

 波の龍田の神の御前に 

 散るはもみぢ葉

 即ち神の幣

謡いつつ くるくると舞う龍田姫。

 龍田の山風の時雨降る音は

 颯颯の鈴の声

 立つや川波は

 それぞ白木綿

曲が急調子になるにつれ、緋色の大口から覗く光太郎の白いつま先がひらひらと翻ってさながら戯れ飛ぶ雄蝶雌蝶のよう。一方でどれほど激しく舞おうともかかとは舞台の板敷に吸い付ついたように決して離れることがない。その滑るような足運びに支えられた上体は重力の縛りを解かれたもののように躍動し、旋回し、袖を翻す。

 光太郎の動きの一つひとつには鮮やかな序破急があった。一つの動きがいつ始まったかわからないほどたおやかに滑り出し、気づかぬうちに加速し、その頂点で一瞬静止して次の動きへと移ってゆく。

 神風松風吹き乱れ吹き乱れ 

 もみぢ葉散り飛ぶ木綿附鳥(ゆうつげどりの)

 御祓も幣も翻へる小忌衣(おみごろも) 

多彩な動きの中に時に絶妙な間を挟み、能全体の流れを作る大きな序破急の中でそれぞれの動きの序破急が果てしなく繰り返される。その心地よさ。

舞台に描き出される龍田の春秋は循環する水、巡る命、回転する惑星を礼賛する言祝ぎの宴となる。祝祭を司る龍田姫の舞は観る者を鼓動のような、呼吸のような、抗いがたいリズムにからめとり、停止と加速を繰り返す黄金色の螺旋(らせん)となって離陸する。祝祭と祈りが光り輝く渦となり、観客を包み込んで一気に上昇する。

 謹上再拝再拝再拝と

 山河草木国土治まりて

 神は上らせ給ひけり

狂騒に近いほどに盛り上がった神楽はその頂点で女神とともに天に吸い込まれ、辺りは唐突に静寂に覆われた。

地球も自転を留めたかのような真空の一瞬。

舞い納めた光太郎は緩やかに向きを変え、シテ柱を越え、橋掛かりを揚幕へと向かう。

橋掛かりはこの世とあの世、夢と現うつつ、人界と天上界の狭間を結ぶ橋とも言われる。とすれば、橋上を帰って行くのは神か、人か。光太郎の龍田姫は歓喜と法悦から突如解き放たれて虚脱の中にいる観客たちの視線を最後まで解放することなく、浮遊するようにその狭間を越え、幕の彼方へと消失した。

 舞台の上に神や精霊や鬼や幽霊を出現させる能という装置の面白さを初めてまざまざと体感したこの日のことは今も折に触れて思い出す。否応なく観る者の心を揺さぶる圧倒的な表現。そこには優れたフィジカル、すなわち磨かれた造形、鍛えぬいた声、すべてを緻密に計算し、動かし、響かせ、コントロールする技が不可欠だ。それらがふさわしい調べを伴い華麗な装束や神秘的な面に鎧われて舞台上に在る時、儚い肉体表現を越えて永遠を示唆するような何者かが、極く稀に姿を現すらしい。

 すべては一期一会であるけれど、叶うならばあの「龍田」を今一度見てみたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?