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冒険者の散歩道

 2022年の2月、ケア付き老人住宅で暮らしていたいて母が倒れ、入院した。原因は最期まではっきりしなかったが、昭和一桁生まれでいろいろと限界だったのかもしれない。新型コロナ流行の真っ只中で病院は面会禁止に近い状況だったが、何とか顔を見に行くことができた。病室に入ると母は一瞬目を開けたがすぐに閉じてしまい、枕元で父の思い出を書いた「父・そしてディアスポラたち」を音読しても、聞いているのか、眠っているのかも解らなかった。
 3月に入って母は亡くなり、兄が喪主を務めた葬儀には子どもの頃よく一緒に遊んだ父方の従兄も参列してくれた。思い出話の中で主役になったのは私たちと従兄の祖父だ。共通の祖先であるのはもちろんだが、やはり家族にとって印象深い人物であったからだろう。

 祖父・薫は明治二十四年(1891年)岡山で地主の家に生まれ、一橋大学を卒業して商社に入社。倉敷で燃料などを扱っていた問屋の娘・花と結婚した。心身ともにタフで行動力に富む祖父は海外駐在で頭角を表し、長男である父は祖父が支店長として活躍した香港で生まれて中学入学までを過ごした。セピア色をした当時の写真を見ると、祖父はニッカボッカにハンチング、ゴルフクラブを携え、トロフィーをずらりと並べて得意げに写っている。柔道も強かったそうだが運動が得意だったのだろう。祖母が髪を二百三高地髷に結い、どの写真でもいかにも日本婦人らしい地味な着物姿なのとは対照的だ。麻雀、ゴルフ、接待と出費がかさむ派手な生活、一方で暴動や襲撃も起きる物騒な社会情勢のなか、祖母には苦労も多かったようだ。
 アジアでの勢力拡大を推し進める日本政府の需要を賄うための石炭を始めとした資源調達が祖父の主業務だった。楽な仕事ではなかった思うが、怖いもの知らずの祖父には向いていたのだろう。祖父のやり方はラオスなどの石炭産出国の港に出かけ、他社、他国が買い付けた石炭が既に積載されてまもなく出航できそうな船を見つけては船主や関係者に渡りをつけ、そのまま横から買い取ってしまう押しが太い大胆なものだったという。私が覚えている祖父の禿げ頭には直径4~5センチくらいのはっきりわかるへこみがあった。汽車のデッキから転落した時の傷跡と言っていたが、もしかしたらきわどい駆け引きの名残りだったのかもしれない。
 昭和一二年(1937年)の盧溝橋事件の少し前に祖父は香港から上海へと異動している。当時の上海は中国軍閥の力が及ばない租界に革命分子や外国人が無数に入り込み、列強の思惑が絡み合う妖しくも華やかな国際都市だった。祖父の住まいの近隣には孫文の屋敷もあったという。
 その頃、祖父の勤める商社は日本領事館など無いような地域にも真っ先に進出し、時には在外公館の代わりを務めることもあった。しかし、国策会社ではなく、必ずしも国と利害が一致していたわけではないらしい。母の葬儀の際に兄から初めて聞いたのだが、祖父は上海駐在時代に日本軍の憲兵隊に拘束されたことがあるという。逮捕の理由は祖父が中越国境を越え、数週間ベトナムに滞在したためで、利敵行為、スパイ活動ではないかと疑われたというのだ。決定的なスパイ行為の証拠は見つからなかったのでじきに放免されたが、祖父は要注意人物としてマークされることになった。祖父だけでなく、当時その商社自体が大陸における取引について必ずしも日本軍の統制に従順でなかったために様々な軋轢が生じていたようだ。
 祖父が兄に語ったところでは、ベトナム行きの目的は政治的なものでは全くなく、これからゴムの需要が飛躍的に伸びていくに違いないと予測し、その調達先を探すための調査だったという。現在ベトナムは世界第三位のゴム生産国となっている。しかし、祖父が訪れた1930年代には宗主国フランスがプランテーションを作って天然ゴムの生産を始めたばかりで、その生産量よりも農園で働く現地人の労働問題が独立運動と結びついたことの方が注目されていた。ベトナムの将来性に目を付けた祖父の行動が、日本軍には国際的な反体制勢力との結びつきに見えたのかもしれない。
 
 祖父は終戦後まで系列企業に在籍したが、1930年代に広島で創業したゴム会社の設立にもかかわっている。靴底の製造に始まり、戦後は子供向けの運動靴などで成長し、今ではパリコレなどにも登場する大人向けスニーカーメーカーとなったその会社の株を、祖父は亡くなるまで保有していた。
祖父母は私が生まれた年に辻堂の父の家に移ってきて、共に暮らすようになった。私が五歳くらいのころ祖母が脳梗塞で倒れて入院。祖父は祖母の看病を家族と専属の看護師ににゆだねて四国八十八カ所のお遍路参りに出かけて行った。今の人から見れば病気の祖母を置いていくのは薄情に感じるかもしれないが、身の回りのことはすべて祖母任せだった祖父にしてみれば、自分の世話で息子夫婦を煩わせるより祖母の回復を祈りながら霊場巡りをする方が家族の負担を減らせると考えたのだと思う。昭和三十年代のことで、今のようにバスツアーなどが発達しておらず、ほとんどの行程を徒歩で廻ったと思われる。数か月に渡って四国のあちこちから特産品や郷土玩具が郵便小包で届き、中には私のために選んでくれたのであろうお遍路姿の少女の人形もあった。

 祖父は無事に霊場巡りを終えて帰還し、祖母は麻痺を残しながらも一度は回復して退院したが、まもなく再度倒れて帰らぬ人となった。祖父はそれから十年ほどを散歩と銭湯通いと株取引で淡々と生きた。歩くことが好きで八十歳を過ぎても往復40~50分以上の距離を軽くステッキを突いてひょいひょいと出かけて行く。少しぼけてからも健脚に任せて大胆に遠出してしまい、迷子になっているところを親切な方に救われて真夜中過ぎに送り届けられたこともあった。私の印象に残っているのは少しとぼけた晩年の祖父ばかりで、当時は若き日の颯爽たる仕事ぶりに思いをはせることもなかった。今更ながら、戦前戦中の活躍ぶりをちゃんと聞いておけばよかったと少し後悔している。

 母が父から引き継いで保管していた祖父の懐中時計が、母の葬儀の後、私の手元に廻って来た。動きが不安定だったのでオーバーホールに出したところ、裏蓋の内側に「12月18日」という刻印が見つかった。日付の意味はわからないが、時計技師によれば1930年代半ばのオメガで日本では流通しなかった型だという。会社から贈られた記念品と聞いているので、香港駐在の終わり頃か、上海時代の功績に対するものということになる。

 ねじを巻くと、頭文字が刻まれた懐中時計はカチカチと意外に明るい音を立てて動き出す。軽やかに廻る短い秒針の向こうに、般若心経を唱えながらを遍路道を行く祖父の、また、ゴムの樹が果てしなく連なる熱帯の林を旅する祖父の、小柄ながらもカッチリと骨っぽい、強気で孤独な背中が浮かんでくる。いつの世かで再会が叶えば、今度こそ大陸やインドシナでの冒険談を聞かせてもらおうと思う。

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