コードの擦り合わせの話。

ロジャーズの三原則のうち、共感的理解と自己一致を両立させるのは難しいと思う。

優位になりがちなのは自己一致で、自分>相手の気持ちにどうしてもなってしまう人の方が多いんじゃないかな。
私は逆に自分の気持ちがよくわかっていないことが多いので共感的理解の方が得意な気がする。(そして相手の感情に振り回される。)

さて。
本題は何かというと、私は私の感覚を他人に理解されにくいし、それを説明するのも苦手だということだ。

これはAC的な認知の歪みが入っているからでもある。
普通の人(普通ってなに?というのは置いておく。自分以外の人)の考え方に、自分だけの経験から成るバイアスがかかってしまう。そのため、一見単純な出来事がとても困難に思える。これが認知の歪みである。

認知の歪みは経験から成るバイアスだというのは、あくまで私の実感である。
こう書く必要があるのは、認知の歪みは経験という、当人の中できちんと理屈や理由があるものから生まれることを強調したいからだ。
逆に、認知の歪みがないというのも、歪みとなる原因のなかった経験によるものである。

だから、私の理屈の通っていない話は、私の中ではちゃんと筋道が通っているんだよーー!!!
という主張もしたいけれど、今回言いたいのはこれじゃない。

ここからが私にとって重要なんだけれど、経験のないものを理解することは、難しい。
私たちは自分の中に〈あるもの〉を想像して感情移入することは得意だけれど、〈ないもの〉についてその存在を想定することはできない、もしくはかなり困難なんじゃないだろうか。

私は他人を想定することが難しい。
前にも書いたように、私は 両親-私 という世界でずっと生きてきたし、他者と触れ合うべき児童期や思春期に内に閉じこもって生きてしまったので、それがすっぽ抜けている。
私が所属した数少ない狭いコミュニティの中で当たり前に存在した(私自身がすべて経験したわけではないが)自傷やメンタル系疾患や機能不全家族の断片は、反対にそれを知らずに生きてきた人たちにとっては想像が及ばないものなのだろう。

だから理解されないし、共感されない。
相手が共感できなくて当然だ。

(そして、人は理解できないもの、特に否定的な内容に関するアピールに罪悪感を抱く。それが拒絶につながるのだ。という内容を書いたメモ画像は https://note.mu/ryoku0710/n/nf400f98ce56c)

さて、わかる-わからない 人間同士の間でコードを共有するには、それを言語化して何がどこまで理解できる・できないのかを洗い出すことによって自己一致を行い、それぞれの思考の文脈の擦り合わせをしなくてはならない。

のだが。これが私にはとっても難しい。
言語化出来ていない部分が多すぎるから、まず自分の考えていることを把握することからはじまるのだ。

小さい頃の思い出を例にあげる。
幼稚園では、その場で自分たちでつくった5~6人班でお昼ご飯を食べるのだが、私はそれがどうしても嫌だった。
当時から私は複数人で、しかも食事をすることが苦手だった。

今から思うと、学習習熟度がまわりの子より早かった上に、親からの視聴するテレビ番組やおもちゃを統制されるなどしてちょっと歪に育てられたので、お友達と同じ話題や内容について同じように楽しむということができなかった。
そこで「私も教えて!」とぐいぐいいける性格だったならともかく、内に引っ込みがちだった私はそれができなかった。
そんな中でも存在した数少ないお友達が、別のお友達と遊んで楽しそうにしているのが、私にはどうしようもない裏切りに思えたのだ。
楽しくない。だから、ますます人から遠ざかった。

話を元に戻す。
今だからこれだけ言語化ができるものの、まだ幼稚園児だった当時、ここまで説明できるわけがなかった。
「どうして緑ちゃんはグループに入らないの?」
「(班が組めないとご飯食べられないから)一緒に食べようよ」
「誰とだったら同じグループでもいいの?」
先生やクラスメイトに詰め寄られた私は何も答えられなかった。
だって、わたしは、誰ともご飯を食べたくない。
ひとりがいい。
でも、ひとりがいいって言っても「たくさんお友達をつくって仲良くしましょう」文化の幼稚園の世界では、きっとこんな考えを理解してもらえない。
だから、言えない。

結局このときは、先生やお友達をこれ以上困らせるわけにはいかないと思って、しぶしぶ班に加わってご飯を食べた。

自分の気持ちをうまく説明できない。
説明してもきっとわかってもらえない。
(わかってくれるかもしれないというのは置いておく)

こんな不安が、私をだんだん臆病にした。
理解されない恐怖。否定される恐怖。

「空気を読む」作業は、自分ではなくマジョリティを優先させる。
私は自分の感情や考えをを上手く説明できるようにならなくちゃいけなかった。
けれど、どこで自分の考えを歪めていて、その歪みを説明上どう克服すればよいのか(歪みに触れない形で説明するか、歪みの存在に触れてから説明するか)、私には理解できていなかった。
当然、説明することそのものにエネルギーを使う。疲れてしまう。
多分、私はそこで自分の感情について考え、説明することを止めてしまった。

それで生きていけるうちはいい。
けれど、誰かと関わって生きていくには、ある程度の自己開示を要する。
でも、擦り合わせを諦めてしまった自分がいまさらそれを頑張るのは、どうにも億劫だし、疲弊するし、怖い。
じゃあ、関わらなければいいよね。
そんな、永遠の負のループ。

これを自覚する前に、とりあえず体当たりで人と関わってみよう!
って闇雲に突っ走ってしまったので、今ガタがきている部分もあるのかもしれないなぁと書きながら思った。

これは今のコミュニティから離れる主原因ではない。もともと今年は体調とメンタルに悪い波がきているから。
けど、体調を崩したタイミングでこれをやっちゃったから、ますます辛くなってしまった、みたいな部分は多分…ある。

苦手でどうしようもないんだけど、こればっかりは場数を踏んで経験を積むことで克服するしかない。
そうじゃなかったら安定に閉じこもって、私の世界は広がらない。
それじゃ、何も認めて貰えない。
仮にあの人たちに認めてもらうことから離れたとしても、人間、ひとりじゃ生きていけないのです。

いったん人と関わる量を減らして、エネルギーが補充されて生活が安定したら、今度は無理のない範囲で頑張ってみたいと思う。
コードを共有できる人間を選んで付き合う大切さも学んだ気がする。
ちょっとずつ階段をあがりながら、ちゃんと適応できるようになりたい。

私の「僧侶修業〜人間(じんかん)の旅〜」は、まだまだ続くのです。

(って書いたけど、これにすら認知の歪みが入ってたら悲しいなぁ)

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