嫌われたくない。私らしくいたい。

嫌われたくない。
だから嫌われるかもしれないLINEのメッセージを送信取り消しする。
けど、一度送ったということは、その時にはそれが最善と思っていたり、私が感じた正直な気持ちであったりする。
送信取り消しするということは、その自分の正直を否定するということ。


正しく生きたい。
正しくありたい。
「絶対的な正しさ」を実践している限り、私を非難できる人はいないから。
「絶対的な正しさ」を実践している限り、誰も私を嫌いにならないと思ったから。
「私にとっての正しさ」では、正しいと言い切れないことを私はもう知っているから。

でも、
「正しいことをしてさえいれば嫌われない」
これは嘘になる。
私は実際に正しさを盾に行動する人に違和感を覚えたことがある。嫌いになったことがある。
正しさを「盾に」行動したことが問題なのか?
わからないけれど、
「正しいことさえしていれば嫌われない」という前提は、成立しないことが分かった。

自分の正しさを実践しても嫌われる可能性はあり、
絶対的な正しさを実践しても嫌われる可能性は0にならない。
なるば、
「絶対に嫌われない」こと自体が不可能である。
ならば、私の
「嫌われたくないから飾って私らしくいられない」
は嫌われたくないこと自体が不可能である時点で成立し得ない。
残った理想は「私らしくいたい」の実践のみ。

しかし、
「私らしくいたい」これは難しい。
私らしいことを追求すれば「自己中」になりかねない。
この「自己中」ということにも曖昧さがあって。
自己中は「人の気持ちを考えられない」
「人の都合を考えられない」ことであるはず。
でも、人の気持ちなんて、考えたとしてもわかるものではないし、
分かったと言い張るのは勘違いもいいところ。
人の気持ちを考えることは大切だが、
考えたとしても「わかる」わけがない。
要するに、
絶対に自己中にならない、なんてことは不可能なのである。


私らしくありたい。嫌われたくない。
このことで重要なのは、

・私の行動は「その時」の私にとって最善で正直な気持ちであったということを認めること。(後から正しくないと考えたとしても、それも「その時」の私にとっての正しさでしかない。また変わる。)
・相手の気持ちを考えることは大切だが、考えたところで理解できることはあり得ないことを理解すること。

・絶対的な正しさが存在せず、また存在したとしても絶対的な正しさが嫌われる可能性を持つ以上、絶対に嫌われない、なんてことは実現不可能であることを理解する。→私らしさの受容・許容

(・これは私が嫌われる・嫌われないの視点。相手に視点を変えれば、相手が絶対的に私が嫌なことはしないなんてことは不可能であり、絶対に私が嫌と感じることはしないなんて心地の良い相手は存在し得ないことと同義である。
私のことを全てわかっているもう1人の私、なんて存在はあり得ないことを理解する。(参考:「孤独と不安のレッスン」鴻上尚史))→相手らしさの受容・許容

・これらの不可能が存在することを理解し、認めること。不可能な範囲が存在する以上、可能な範囲もあるため、可能な範囲での思考と行動を実践すること。

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