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壊して作る。作っては壊す。そして繰り返す。


沖縄の鬼餅の昔話は諸説ありますが、最初に聞いた話は物心ついた時であります。人喰いになった兄を、妹が鉄入りの餅を食わせて退治した、という桃太郎のような英雄譚として親や祖母から聞かされた覚えがあります。
しかし、年齢を重ねて自分で本を読んで由来なんか知ることになると、ヨーリーが書いたような上の口と下の口のお話が出てくるわけであります。
そこでは、妹が女陰(ホー)を見せると兄は気が朦朧として、それを井戸だか崖だかに突き落とした、というお話が子供に聞かせられないもんだから、親たちはそこを省いて話を伝えたんだと思うけど、この要素がこの話の肝というか核なんですよね。
普通の男なら、年頃の女性(妹という要素については後述します)の淫部を見たらムラムラしそうなものですけど、この兄はそうならなかった。逆に目眩や悪心を起こすわけです。このことからも、鬼となった兄は性的な発育不良というか、成熟していないため、内なる性衝動を人喰いという行為に転嫁していたのではないか、という解釈が成り立ちます。
妹の淫部だからムラムラしなかった、という考えもありますけど、制御不能にフラフラになることはないですよ。せいぜい、「お前、はしたないから股を閉じなさい」くらいで済むはずです。けれど、この兄は“ドラキュラに十字架”のように女陰を見せたら狼狽するわけだから、どうも普通の感覚ではないと思わざるをえないわけだ。
妹も兄がいい歳して性衝動を発露できず、歪んだ形で発散している姿から直観的に悟ったのでしょう。
母なるもの。命を生み出すもの。そして自分が産まれ出たもの。
そうした命を喰らう上の口にはない下の口の存在を見せつけることで、彼の行為の愚かさを諭した、というのが真相なのではないか、と個人的に考えている次第であります。

話はアカギの木になりますが、あの木はとてつもない巨木になります。俺の実家の墓は崖の下に横穴を開けて作った昔ながらの破風墓だったのですが、いつの間にやら墓の近くにアカギの木が育ち始め、木がみるみるおおきくなり、枯葉の掃除が大変になってきた頃、木の根っこに墓を割られて引っ越しせざるを得なくなりました。
「あのアカギをなんとかしなくては」と晴明祭の度につぶやいていた親父は、そのあまりの巨大さに切り倒すと近所の墓に危害が及ぶことを恐れ、放置していたのですが、結果、自分たちの墓を使用不能な状態にされてしまいました。

あの大赤木はとにかくでかい。小学生の頃、ウォークラリーであの木を一クラスごとに見学したものだ。一クラス四十名くらいの子供たちを傘に収める大きさだった。


人智の及ばない自然の勝利とでも言いましょうか。そういう意味で、肉親とはいえ、知恵を働かせ、非情にも兄を葬り去った鬼餅の妹の故事は、実に知己に富んでいます。
鬼餅の妹は、人でなしになり、鬼と呼ばれた兄を破壊し、寓話の世界に送ることに成功したのです。

よく、世間では「ニートで引きこもりの息子を親が殺害」とか逆のパターンの話がありますが、そこにあるのはただの悲劇です。しかし、鬼餅の寓話は“ムーチー”というサンニン(月桃)の葉でくるんで蒸した美味しい餅を食べるイベントに昇華させたわけですよ。これぞ人智の成せる技と呼ぶにふさわしいじゃありませんか。
邪魔な親族を葬り去る。そんなダークな事件を寓話にすることで前向きにしてしまう。そんな逞しさはなんか、ギリシャ神話みたいだと個人的に思っています。
あいつら、ゼウスの浮気とその女房の嫉妬のいざこざを全て“寓話”にして解決してるじゃないですか。


そこで、思ったのが暦のこと、つまりカレンダーのことです。カレンダーは、ギリシャ語で新月を指す「カレンダ」の転用です。
旧暦は月の満ち欠けを基準にし、新月から満月までの15日サイクルで作られます。当然、ひと月は三十日で、一年は360日になります。
だから、何年も続けると年間5日の誤差が4年で二十日になるから、二月を二十八日にしたり、微調整をしたりするわけですよ。
閏年なんかもそうで、二月の二十八日にプラス一日を足したりするんだけど、それでも足りなくなるから、旧暦の世界は「閏月」なんてことをする。つまり、「十一月を二回」とか、そういうことしないと調整できなくなるんです。
すげー、めんどくさい話なんですけど、これって農業とか漁業の人たちにとって大切なことで、月の満ち欠けなんかは自然を相手にしてる人たちには大切なんですよ。
だから、沖縄定番グルメとか言われてる豆腐に乗っかってる塩漬けの魚なんかは、旧暦の六月一日と七月一日の前後にしか獲れない。
だからこそ、旧暦さまさまだから、漁業で栄えてきた糸満なんかは今でも旧正月がメインで公休日に指定されたりしてるんですよ。

で、何故に鬼餅の逸話が旧暦の十二月八日なのか?という設定の問題にぶち当たります。いや、いつだっていいじゃないすか、こんな話。と、思いきや、餅なんですよ。餅は保存食で、寒い時に作らざるをえない。さらには、年の瀬なんです。
つまりは「新しい年を前に古い年を葬る」という、“破壊と再生の儀式”なわけですよ。
兄が性的に未熟で、リビドーを他人に迷惑かける形で発散してる。それを妹が破壊して寓話にまで高める。そういう、破壊と再生の物語が鬼餅だから、年末の古い年から新しい年に切り替わる節目にやる必要があったんですよ。
あー、なんか納得した。

というわけで、乱暴ではありますが、“破壊と再生”という括りで考えれば、世の中のうつろいというものも理解しやすくはなります。
自然とは、破壊しないことです。しかし、人類は自然を破壊し、植物や動物たちを不自然な形に進化させ、野生の動植物を駆逐してきたわけです。
我々が食べてる全ての穀物は野生種ではなく、人が自分に都合よく進化させた、人類がいなければ野生で生きていけない植物です。アーモンドの野生種が、青酸カリを含み、致死量が存在したものを、努力で弱毒化に成功し今に至るまでの軌跡は感動的としか言わざるを得ません。
古きものを新しく刷新する。日本の神道で言う「禊ぎ」ですよ。

禊ぎと言えば初日の出。これもまた、西に沈んで死んだ太陽が東から蘇るという規則性を新年と旧年になぞらえた儀式じゃないか。

とかなんとか、くだらないことダラダラ書いてきましたけど、大切なことは、「貴女もまた変わり続けている」ということです。
変わらないこともたくさんあるでしょう。けれども、周りの変化も貴女自身の変化も、貴女は気づいているはずです。そのことへの戸惑いはわかりますが、人は移ろい続けるものなのです。受け入れるしかありません。

そういうわけで、新年早々なんだか長々とだらだら駄文としか言いようのない文章で申し訳ありませんが、これは再生なんでしょうね。だから、俺のしてることはくだらない再生産でしかありません。破壊と創造ということは困難かつ、偉大なことなんだなぁ、と実感する次第です。

とかなんとか言いながら、遅ればせながらあけましておめでとうございます。今年もお身体に気をつけて。ヨーリーに幸多き一年であるよう、心よりお祈りしています。

武富一門 ryo_king

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