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2トンの鶏糞をください

「無料で鶏糞がもらえる所を見つけたよ!」と満面の笑みで夫が伝えてくれた。これは今の家に引っ越す前である。お金を貰えたとしても大量の糞を受け取ってくれと言われたら普通は断るだろう。なのに、うちの旦那はお金を払う覚悟で糞を手に入れようとしていた。そしたら、なんと、ただで好きなだけ鶏糞を持って行っていいよと言ってくれる人を見つけたのだ。確かに、その人からしたら糞が溜まっていく一方では困るだろう。でも、欲しいと言ってくれる人がいるとは…ちなみに、旦那は2トンを受け取ることにした。鶏糞2トンだよ!要る?!それが一般人と農家の違いかもしれない。私たちはまだ家畜を飼っていないので肥料を作る程の糞がなくてどうしようか考えていた。家畜を飼う利点は卵や乳、肉だけではない。動物たちの糞こそ大事な栄養が含まれている。それを食べる微生物が土作りや野菜作りに欠かせないのだ。という訳で私も夫と一緒に喜んだ。「鶏糞、いいね!」

夫婦はやっぱりお互いを影響する。旦那と知り合ってから、特に農業を一緒に始めてから、自分の考え方が変わった。生ゴミを堆肥にすることができるのは知っていたけど、生ゴミだけではなく、落ち葉、雑草、枯れ草、竹、など、あらゆる物が貴重な資源に見えてきた。夫の実家へ帰ったとき、近所の方々が落ち葉をゴミ袋に入れて捨てていた。ちょうど将来の温床作りのために落ち葉を集めていた時期だったので私たちには信じられない光景だった。なんてもったいないこと!車に入れることができたら持って帰っていたかもしれない。車はでももう既に古いタイアでいっぱいだった。これも、他人の「ゴミ」を資源として使う計画のうち。幸い新しい家の周りにも沢山の枯れ葉が落ちていたので温床は無事に完成させることができた。落ち葉と言えば、自然にできた腐葉土を敷地内の森から手に入れたり、枯れ葉をマルチとして畑に敷いたりと、他にも使用法はある。生え過ぎた草や笹は農業をしていなくても迷惑だけど、これも刈っておくとマルチとして使える。

夫の発想を聞いたり、行動を見たりしていると「使えないもの」を「使えるもの」に変えていくことに感心せざるを得ない。そういうものがきっと周りに沢山あるのではないかと思う。見る目と聞く耳があれば。自然界での無駄はない気がする。花が咲いて散って、実が生って落ちて、そのように種が蒔かれていく。「なぜ葉は色が変わるか知っている?」と友だちに聞かれたことがある。「死ぬからだ」とその友だちが嬉しそうに答えた。確かにそうかもしれない。でも、死に至る前の姿が美しい。そして、枯れて落ちる葉はまた土に還り、新しい命を生み出す。糞も似たようなもの。食べた後の「廃棄物」という言い方をするけど、これもまた土に還って新しい食物を作らせる。人間もそう。いつか土に還り、微生物の餌となり新しい命を生み出す。

生物学的にこれらのことは理解できる。しかし、精神的にはどうだ。心のどこかでは汚れや腐敗や死は嫌いで受け入れたくない自分がいる。咲いた花は綺麗だけど、しぼんだ花を誰かに渡すことはない。紅葉は素敵だけど、茶色になって踏みつけられた落ち葉には誰も振り向かない。食べ物は欲しいけど、糞はできるだけ自分から遠ざけたい。生き生きしている人と一緒にいるのは楽しいけど、死と向き合うことは避けたい。こんな社会、こんな心になっていないか。ところが、農的な暮らしをしていると汚れも糞も死も付きものだ。そうやって心が鍛えられるかもしれない。少なくとも自分は旦那と知り合って、有機農業の世界を知って心が広くなってきたと思う。自然の中にある循環を意識し、無駄や無意味がなく、全てに理由や目的があることを教わっている。これが神様のデザインされた、死から命をもたらす世界。見る目と聞く耳があれば。私も、「2トンの鶏糞を持って帰って来た!」と旦那に言われたら、「すごい!よかったね。」と素直に答えられるようになった。

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