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「なにが食べたい?」と聞かれても何も浮かばない

プライベートで友人や知人と食事をするとき、あるいは仕事などでだれかとごはんを食べるとき、

「ごはん、何が食べたい?」と急に聞かれると、即座にまるで何も出てこないんですよね。

ほんとに食べたいものを答えていいと思うんですけど、食べたいものを考えれば考えるほどまるで浮かんでこない。

その瞬間に「これが食べたい!」というものがない

わたしだって我がお腹に耳を熱心に傾けますよ。そりゃ
しかしね、ひねり出そうとすればするほどまるで出てこないんですよね。

ですのでこうしたときの対策として
「中華、和食、イタリアンとかであればなんでも、、」

とか3案くらい出して相手に委ねるのですが

いやいや、もはやこの3案でほぼすべての料理を網羅しているというか、、
なんともお粗末なアンサーを披露してしまいます。

あとは前日食べたものや、直前に食べたもの以外をさして
「パスタ以外ならなんでも、、」とか言ったりしています

ええ、、わかっています。優柔不断なのは。ですがほんとうにほんとうにいいたいのは「なんでもいい。。」んです。

いや、よくわかっていますよ。「なんでもいい」がよくないのはわかってます。相手も困るでしょう。

しかし好き嫌いが皆無に等しく、スパイシーなものからスイーツ、超オイリーから超さっぱりまですべていける、さらに同じものを3日繰り返してもOKのこのわたし様からすれば、ほんとうに「なんでもいい」のです。

この「なんでもいい」という正直なきもちが許されず、なにか指し示さないといけないというこの悲しみ。ああ、こればかりはときに苦痛であります。

この何かを決断しないといけないプレッシャーはいたるところにあって、迷うことが許されぬ社会。そんなに「今は焼き魚定食が食べたい」とスパッと答えないと行けませんかね。

人間はぼんやりふわっとでもいいような気がしします。迷って迷って答えを出せず。

いや考えてみれば、むしろ「なんでもいい」と答えられるこの許容度の高さ。それってすごいことじゃありません。

ほんとうは食べたいものがあるのに隠して「なんでもいい」んじゃないんです。

心から「なんでもいい」と言っているんですよ。

その心の広きわたし。世界をふんわりと包み込む包容力。自我を消失させた無心のこころ。宇宙を見守る超越したまなざし。そう、それが「なんでもいい。。」

そう、このわたしをインドの釈迦やガンジー、はたまたマザーテレサのように讃えてほしいのです。いや讃えてください。




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