行動の根拠に自分の思考を置けるように。

なんとなく日々、自己肯定感という言葉の使われ方に違和感を感じている。この言葉が、努力しないことを容認するような雰囲気を含んで用いられることがとても嫌いだ。


最近、会社の共同創業者でもある龍崎が本を出版した。
今日はその出版記念パーティーをグループ会社が運営している京都のホテルで行った。

人手が足りないとのことで、普段コードばかり書いている自分も現場に入って手伝いをしてきた。他にも会社のメンバーを一人、ヘルプとして貸し出していた。

自分が振られた役目はクロークの管理だった。
多くの人が来る機会なので、採用可能性がある人がいたら自由に動き回れるように配慮をしてもらっていたのだ。

自分が告げられていた入り時間は他の人よりも遅く、会場につくとほとんどの設営が完了していた。普段とは違う服装で、普段とは違う環境で、知り合いが多く参加する予定だったので、なんとなく浮ついた気持ちで会場入りをした。

イベントが終わって帰ってきて、今PCに向かっているのは、
今日の自分はなんだかとてもダサかったと反省をしているからだ。

イベント自体は本当にとても楽しかったし、別に何か失敗をしたわけでも、ミスをしたわけでもないのだけど。

ただ、自分は今日、最初からプロフェッショナルとして振る舞おうとしていなかった。それがどうしても許せない。

気付いたのは、一緒に参加した自分の会社のメンバーが誰よりもテキパキと仕事をこなしていたことだった。

会場の設営に始まり、途中からきたお客様への気配り、他のスタッフへの指示出しまで、頼まれていないことも自発的に探して動いていた。

イベント終了後の撤収作業も、自ら仕事を探して誰よりもテキパキと動いていた。仕事を探せなかった自分は、一人イベントの残りの麻婆豆腐丼を食べていた。

帰ってくるまで気づかなかった。
シャワーを浴びながらモヤモヤが止まらなくなった。

俺は今日、手を抜いていた。

なぜ、どう過ごしても使う時間は変わらないのに、全力でイベント運営スタッフをやろうとしなかったのか。

今日は本当に始まる前から負けていた。


不確実な未来に対する自分の思考を、
どれだけ深く信じて行動に繋げることができるか。

これが自己肯定感だと思う。

自分は、自分の思い描く未来に人の人生を巻き込んでいく経営者という職業をしている。そんな自分の自己肯定感は徹底的な自己否定の先にあるべきだ。

実は今日、不確実な未来に対して結構な覚悟のいる意思決定をした。
その上で、なんというか、今日の自分のふるまいは、語っている目標に値しないと思ってしまったので、反省して記事に残しておくことにした。

気を引き締めて、全力で抜かりなく、
かっこいいプロダクトを作っていく。

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