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【WEEKLY留学記㉗】(4/15~4/21)

四月上旬に咲き始めた木蓮(マグノリアとも呼ばれるのかな)、昨日今日の雨で散り始めて、葉の芽が出始めました。長い冬がとうとう終わったーって感じで良きかな。

葉っぱが出る前に、花を咲かす木は春先には多いようで、ウメやソメイヨシノもそう言えば花が散ってから一気に緑に色づいてた気がします。

この前家からキャンパスに向かう途中で、野生のきくらげを見かけました。野生のきくらげってなんか不思議なワードだけど、木の枝に張り付いて黒光りしてるきくらげを実際に見たのは初めてだったので、少し興奮を覚えました。こうやってのっそり生えてるんだと思って。昔の人、よくこれを食べようって挑戦したなって興奮のあと感心の気持ちすら抱きました。味はあんまりしないけど、きくらげの食感はたしかに良いですよね。


これまで上海、大阪、岡山に少なくとも一年以上住んできました。どの街にもそれぞれの色があって大好きなんですが、ここストーニーブルックに住み始めて約八ヶ月、それなりの色が見えてきました。

華やかさと騒がしさがあるマンハッタンから電車2時間のここストーニーブルックは自然が豊かなところだと思います。木々の色で季節の変化を繊細に感じれるし、海にも近いから昼と夜で風向きがはっきり変わって一日の時間の流れを実感できる場所です。

季節や時間の流れ、って言うと感じるのは当たり前じゃないかと思うかもしれないが、自分が忙しくなくても、せわしい生活圏の中にいると、自然のわずかな変化は埋もれてかき消されてしまう気がします。逆に言うと、天気がいい時にハンモックを建てて、木漏れ日の下で本を読んだりする人が割といる地域に住んでると、おーもっと自然を楽しんでこって思わされます。古今東西変わらない自然のリズムはいつもそこにあるようで、時間と心に余裕がないと見逃してしまうんだなぁと、この春ようやく気がつきました。

自然をもっと身近に大事にしたいですね。

研究型大学で知られているこの分校は、実はこの長閑さに惹かれてこの地に研究室を集めたのかも、なんて思ったり。日本でも、研究、特に基礎研究の集積所は都心ではなくて、地方大学にどんどん移していけば、地方過疎化の問題も解決されそうですが、現実はどうでしょう。


授業が終わった後に行く研究室で、となりに座るアンドリアとよく話をします。今週の初め、雑談してたら色覚の話になりました。

目の奥で光を感じとる部位である網膜、その膜の中に視細胞があって、その細胞の表面に埋まっているオプシンというタンパク質を調べている研究室なので、そんな話題が出るのも不思議ではありません。

この会話をなかなか忘れられないでいるのは、普段気付かなかった自分の中の小さな差別心に気がついたからです。

僕ら人間のほとんどは、一種類の桿体細胞と三種類の錐体細胞を持っています。その四種類の視細胞の表面にあるオプシンというタンパク質はみんな同じ遺伝子からできてるのかなって気になってアンドリアに聞いたところからこの話が始まりました。

その質問の答えは、四種類あるオプシンはそれぞれ違う遺伝子から来ていて、タンパク質の形も微妙に違うと。形が違うから、どんな光に反応するかも当然変わってくるし、別の言い方をすれば、吸収する光の波長領域がわずかにずれてくる。

これもまた僕らの人間の”ほとんど”という言い方をしますが、ヒトは23対の染色体を持っています。じゃあ四種のオプシンが違う遺伝子から来ているなら、それぞれどの染色体に乗ってあるんかなって二人とも気になり始めて、調べたらこうなりました。

暗いところで光を感じとる桿体細胞にあるオプシン(通称ロドプシン)は3番染色体、
青色周辺の短波長を吸収する錐体細胞のオプシンは7番染色体で、
緑色周辺の中波長と、赤色周辺の長波長を吸収する残り2種類の錐体細胞のオプシンはどちらも X性染色体に乗ってることがわかりました。

(ちなみにこの写真は女性の染色体で、X性染色体を2本持っていますが、これを書いている僕の全身の細胞にはどれもX性染色体が一本しかありません。対のもう一本は僕のお父さんから受け継いだ、X性染色体と比べて小さめのY性染色体です。)

アンドリアはオプシン、特にロドプシンの構造をずっと調べてきたので、構造にはすごく詳しくて、X性染色体に乗っている2種類のオプシン遺伝子のどこが変異すれば、赤色と緑色を区別できなくなるかも説明してくれました。

ここからが本題。

英語では色をうまく識別できないことを、Color blindness もしくは Color vision deficiency と呼んでいて、
日本語では、色盲、色覚異常、
中国語では、色盲(Sèmáng)、色觉辨认障碍(Sèjué biànrèn zhàng'ài)がその対訳で、世間に定着していると思います。

ウィキペディアによると、2017年9月から日本遺伝学会では「色覚多様性」という呼び方が提唱されているようで、割と最近だなと感じました。

並べてみれば、そりゃ「色覚多様性」という呼び方の方が良いに決まってると誰もが思うはずです。僕もそう思う。

そう思う僕だけど、これ読める?と出されたテストで、

とっさに「Hey, I'm normal.」って笑いながら言ってしまったんです。


自分の心のどっかに、自分は正常だって思い込んでたんですね。生まれつき3種類の錐体細胞を持っていることを当たり前かのように、ありがたみのような感情がなくなってたことをそこで初めて気づきました。

言った直後に、「ノーマルって言っちゃいけないよね、それは人種差別だから。」って取り繕ったけど、言葉に気を付けるというよりも、これは意識を変えないといけないなって思いました。身近に当事者がいないから時々当たり前のように思うけど、そうではいけないと。

これは色覚多様性に限ったことではなくて、他の感覚や能力にも言えることだと思います。例えば、僕が持つ他の四感の領域が僕以外の大半の人と一致していることも、別にノーマル正常というわけではない。たまたま大部分の人たちと一致しているだけで、その大部分の人たちが動かしている社会に暮らしているから、自分の中で錯覚が生じていることに他ならないと考えるようになりました。


ちなみに、後から調べて分かりましたが、そもそも、ヒトのX性染色体上に乗っている2種類の錐体細胞のオプシンは、長い進化の途中、変異のおかげで1種類から今日の2種類に増え、人間の大半に緑色と赤色を識別することを可能にしたのです。だから「異変」という言葉もすごく中立的であることがわかるし、その異変があったから、僕含め多くの人が三原色の原理に賛同しています。

木蓮の花が散り、葉の芽生えを知ることができるのも、大げさかもしれないが、奇跡かなと思います。

君に幸あれ!!!